意味と認識

先日、Web3.0がどうたらこうたらと現代思想かぶれの立場から書いたら、
言語学に関することについてまたなんか書きたくなった。


言葉というものは例えば紙の上に印刷された文字、
あるいは発声された音声という形でもいいが、一定の外見を持ち、
「意味」という中身を伝えようとする。
「夜明け」という言葉があって、人は「ああ、夜が明けたのか」と思う。
この「意味」とはなんなのか?


これについて考え出して話し出すときりがないのでまた別の機会にしたいんだけど、
今日ここで書いておきたいのは、
意味というものはコンテクスト/状況によって随時変わるものだということ。
一見難しく感じられるけど、誰でもすぐに思い当たるはず。
例えば「夜明け」と言う言葉が口にされたとき、
会話している人たちの置かれた状況によって受け止められるべき内容が変わってくる。
政治的弾圧を受けていた人たちが「遂に夜明けのときが来た」と語ったならば
それはただ単にその日の朝が来たという意味では決してない。
「夜明け」という言葉はこのとき、解放の象徴となる。
言葉というものは語義通りの意味と、この象徴的な意味とが常に重なり合っていて、
この象徴的な意味というのがコンテクスト/状況に応じて変わっていくというわけだ。
(どちらかと言うと語義通りの意味+状況的な意味と言った方がわかりやすいかも)


そしてこの状況というものも人は常に素のままで受け取るのではなく、
解釈の一定のルールみたいなものを利用することが多い。
例えばある会社で働いていたらその会社での常識とされることがあったり隠語があったりで
そのルールを知らず知らずのうちに当てはめて聞いたり話したりするものだ。
確かロラン・バルトはこれを文化の「コード」と言っていたように思う。
(違っていたらごめんなさい)


このとき、その会社とは別の会社で働く人にはそのルールのいくつかは「?」なものであるし、
同じ世代であっても自営業やもっと全然違う職業、例えば、芸能人だとさらに「??」となる。
世代が下って子供たちとなるともっと「???」となる。
このとき、子供たちには子供たちのルールがある。
社会的集団同士がかけ離れればかけ離れるほど、このルールの重なり合う範囲は少なくなる。
しかし、大人と子供との間で話が通じないかと言えばそんなことはなく、
その大人と子供が同じ家庭にいるのならばその家庭のルールが存在する。
広い括りで日本人だからってことで通じたりもする。


そうだ、「日本語には主語がない」という話を時々目にする。
これって要するに日本語の「○○は」「○○が」という表現が
英語の主語に該当するものと見えるようでいて、実はそうじゃないってことなんですね。
「○○は」「○○が」って実はその状況での主体となるものを指し示しているというだけ。
この説明の例として、昔国語の教科書で「僕はうなぎだ」という文章があったのを思い出した。
英語の主語動詞的解釈からすると、僕は生物学的にうなぎだということになる。
でも普通そんなことを言いたいわけではなくて、
和食のレストランにて注文をとっている場面にて
「僕はうなぎだ」と言われたのだと補足されると非常にしっくりくる。
日本語は必ずしも主語+動詞という組み合わせを必要としない。
逆に英語は「It's Raining」というように具体的な意味を持たなくても、「It's」とつけたりする。
日本語が難しいのは、「状況」というものによってどんどん意味が変わっていく言語だからだと思う。
文法的に解釈される内容だけじゃなくて、
それと同じぐらい、状況的に解釈される内容を必要とする。


あ。気がつくとまた長々と書いてしまった・・・


こういったことを今書きたくなったのは、東急線の社内マナーの広告。
「どっちがへん?」という一連のシリーズ。


もともとは絵本なんだけど、
http://www.kinokuniya.co.jp/02f/d05/dottigahen.htm


そのユニークさから東急線の広告で採用されたというもの。


都内在住の方は目にしたことがあるかもしれない。
作者の方のブログに画像があります。
シリーズ② http://iwaisanchi.exblog.jp/5920795/
シリーズ① http://iwaisanchi.exblog.jp/5073255/
いい広告だと僕は思う。


問題にしたいのは②の方。
上の画像では戸口に子ブタが2匹いて、オオカミに追いかけられたもう1匹をハラハラと待っている。
下の画像では今にも閉まりそうな電車の入り口に子供が2人いて、
もう1人が駆け込むのを同じくハラハラと待っている。
その後ろには時間を気にして走っているサラリーマン。


これさ、「どっちがへん?」と聞かれて最初僕はかなり素で、
「擬人化されたブタとオオカミの追いかけっこって現実の世界でありえないから変」
と思ってしまった。
でも、これってそういうことが言いたいんじゃないですよね。


僕はもう長いこと絵本とは無縁に生きてきたから、
そういう認識のコードを忘れてしまっていた。
なので絵本のコードで直観的に理解するということができなかった。
「今自分が目にしているのは交通マナーに関する広告である」という状況にあてはめてみて、
初めてその主張したいことが分かった。


今の自分が日々暮らしている中で手にしているコードが全てで、それ以外のものはありえない。
それぐらいに強く人は自分の認識というものを過信してしまう。
だけどそれって案外いい加減なものだ。それこそ「状況」によってどんどんぶれていってしまう。
頭がいい人、柔軟な人ってのはこのコードの切替がスムーズなんだろうなーと思う。