「終わりの街の終わり」

先週、ケヴィン・ブロックマイヤーというアメリカの若手の作家の
長編小説「終わりの街の終わり」を読んだ。
http://www.amazon.co.jp/dp/4270003286/


テーマは「世界の終わり」
本当に、この世界が終わってしまう。


「世界の終わり」と言うと SF っぽくて
SF界最高の賞の1つ、「ネヴュラ賞」の最終候補にもなってるんだけど、
「普段、SF読まないし」ってんで敬遠されたらもったいない。
(ちなみに、ハヤカワではなくて、講談社ランダムハウスから出ている)


2つの物語が並行して語られる。
「まばたき」と呼ばれる伝染病により、一瞬にして死滅した世界が舞台。


・世界を牛耳る大企業コカコーラの
 広報活動の一環として南極調査隊に送られたローラ・バードは
 アクシデントにより、1人はぐれてしまう。
 物語が始まったばかりの頃の彼女は伝染病を知らない。
 どこかに誰かいないか探すために彼女は1人きり南極大陸を横断する。
 無人の観測基地に辿りついて真相を知ると、
 彼女はたった1つまだ使えるはずの無線機を求めて旅立つ。
 クレバスにはまり、装備を失い、それでも吹雪の中を歩き続ける彼女は・・・


・人間は3種類に分かれる。
 まだ生きている人と、死んだばかりの人々と、完全に死んだ人。
 死んだばかりの人々が集まって暮らしている街がこの世のどこかにある。
 誰か1人でも生きている人たちの記憶に残り続ける限り、
 彼ら・彼女たちはそこで暮らしていける。
 ある日、街から人がどんどん消えていって、一定の人数で減少が止まった。
 どうやら、共通の誰かを介してこれらの人々はそこにとどまっているようだ。


つながりが分かりますよね。
物語がどういう展開を迎えるかも。
1人きり南極大陸に閉じ込められたローラは記憶の中の人たちを数え上げる。
その一方で地上で生きていたときの関係性から離れて、街で新しい生活を始める人たちがいて。
街が消えうせてしまう日が来ることを予感している。
しかし、地上と街に離れて、残された人々にできることは何もない。
街の日々は淡々と続いていく。
それぞれの人の、それぞれのエピソードが静かに語られる。
地上では、世界の果てへと向かうローラの過酷で孤独な旅が続く。


僕の身の回りの人なら知ってるかもしれませんが、
僕は「世界の果て」「世界の終わり」というテーマが大好きで、
直接的にであれ間接的にであれ、それらが描かれたものに出会ってしまったならば、
どうしても読んでしまう。
自分でも書きたくなる。


この世界はどんなふうにして終わっていくのか?
世界の終わりを目の前にして、取り残された人々はいったい何を思うのか?
どういう行動を取るのか?


一番面白かったのは
SF だとグレッグ・ベアの「ブラッド・ミュージック」
純文学だと村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド
漫画だと「ワールド・イズ・マイン」(もしかしたら「AKIRA」もそうなのかも)、
手塚治虫藤子・F・不二雄の諸作ってことになるんだろうけど、
「終わりの街の終わり」も並ぶね。
そうか、こういう「世界の終わり」があるのか、
こういう描き方が、こういう終わり方があるのかと。


(「世界の終わり」に限った話ではない。
 どんなテーマであれ、人々が生き続けている限り、その歴史が続く限り、
 新しい発見があって、新しい感覚があって、
 掘り尽くされることはありえないのだということ)


恐らく、作家一人一人につき
心の中に思い描く「世界の果て」「世界の終わり」って異なるんだろうな。
終わりは終わりだから共有されることはなくて、それぞれにその世界が終わってしまう。
その、1つ1つが真に迫っている。
なぜって、そこに人は自らの死を投影するからだ。たぶんね。
あるいは、その作家の世界観とその限界を表すもの。


読んでて、
小説を書きたい気持ちになった。

終わりの街の終わり

終わりの街の終わり