「ロルナの祈り」

2日月曜、感門之盟の宴会で朝まで飲んでるだろうと、休暇を取っていた。
予想通りの展開になって、昼まで寝て、起きて映画を見に行く。
恵比寿ガーデンシネマダルデンヌ兄弟の「ロルナの祈り」を。
ほんとは、前の日終電で帰ってきていたらもっと早く起きれただろうし、
クリント・イーストウッドの最新作「チェンジリング」も見るつもりだった。


「ロルナの祈り」
http://lorna.jp/
これ、絶対見に行かなきゃと思っていた。
真摯な映画造りということで今最も信頼できる映画作家って僕の場合、ダルデンヌ兄弟であって。
「手を抜かない」「真剣に向き合う」「誠実」「孤高」そんなキーワードが思い浮かぶ。


そんなダルデンヌ兄弟であるが、今回ちょっと変わったと思う。
?これまで 16mm の小型カメラで撮っていたのが、今回 35mm へ。
?そして、ラストシーンとエンドクレジットで意図的に音楽が流れた。


結果、賛否両論ありそうだけど、僕からしてみれば「普通になっちゃったなあ」と。
変化ではあるけど、これって進化なのか退化なのか。歩み寄るという行為の是非。


?について。これまでの「ロルナの祈り」はカメラの軽さゆえか、
動き回る、時として走り回る映像が印象的だった。
そしてその佇まいは「潜む」という言い方が最も合っていた。
映画を映画足らしめる「異物」がむき出しのまま、
レンズ−スクリーン越しに垣間見えると言うか。
それが今回、映像がどっしり構えるようになって。
良くも悪くも巨匠感が出てきた。
異物を「眺める」ようになった。
作り手の視線が視線として確立される。寄り添うような、突き放すような。
これまではその視線がなかったんですよね。いい意味で。赤裸々、ダイレクト。
そこに映画的快感が宿っていたのでは?
だからこそ「ある子ども」のラストシーンの涙が美しいものとなりえたのではないか?


?について。寄り添う視点ってことに近い話だけど。
感傷的な音楽が流れるんですよね。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ、第32番。
ダルデンヌ兄弟はラストシーンに、意味を持たせてしまった。与えてしまった。
それまで、唐突に終わっていたのに。
ロゼッタ」のあの表情は何を物語っていたのか?
作り手からの一方的な解釈がそこになかったがゆえに、
あのラストが素晴らしかったのであって。
やっぱ今回も音楽なしの方がよかったなあ。
偽装結婚をした男、殺されてしまった男の子どもを宿して、逃げ出した、
そして疲れきって眠った。それだけでいいのに。
感傷的な音楽を付与することで、そこに主人公ロルナに対する安易な同情が生まれる。
許されざる子どもを宿した聖母となる、といった解釈が生まれる。
つまり、作品の可能性を狭めてしまうんですね。
もったいないことするよなあ、と思った。


じゃあ、これが駄作かというとそんなことはなくて。
でも、「ロゼッタ」「ある子ども」のような感動・衝撃はないなあと。
これで4本見て、僕の中で新鮮さがなくなったってことでもあるんだろうけど。
最高傑作ではない。
だけど、世の中にあまたある凡作を見るくらいなら
「ロルナの祈り」を見たほうがよっぽどいい。
ロゼッタ」が星5つなら、「ロルナの祈り」は星4.5個。