ヴァージニア・ウルフなんかこわくない

ヴァージニア・ウルフについて。
もちろん僕にとって気になるのは
モダニズムを切り開いた小説家としてのヴァージニア・ウルフだ。
フェミニズムの論客としてのヴァージニア・ウルフではないし、
一人の女性としてのヴァージニア・ウルフでもない。


結局のところ、彼女は何を書いたのだろうか?
何を書きたかったのだろうか?


どんな物語を書いたのだろうか?
どんな物語を生きたのだろうか?

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その作品は寄せては返す「波」のようだ。
絶え間なく形を変え続けて、決して一つの場所に定まることがない。
その瞬間瞬間ごとに異なる様相を見せる。
なのにそれは静止しているかのように、静かだ。
その場は常に静けさに満ちている。
喧騒。音や声の周りを、虚無が取り囲んでいるかのようだ。


言葉が、意識と共に流れていく。
しかしそれは滑らかに繋ぎ目もなく切り替わっていくのではなく、
どちらかと言えば不器用で不連続なものである。
とりとめがない。そこには、理由がない。


ひどく感覚的である。見る、触れる、食べる。
瑞々しい感覚の切れ端。そのモノクロームなモザイク。
そう、カラフルではない。
何よりもそれは、白い紙の上に印刷された黒い文字の連なりのように見える。
(それは彼女が日々根気よく、ホガース・プレスという名の
 自宅兼零細出版社で活字を拾い続けたからだろうか?)


そう、彼女は自分が書いた小説が何よりもまず、
紙の上に印刷された文字であることを感覚的に知っている。
そこから逃れられないことを知っている、ように思う。
午前中に書いたわずかばかりのページを彼女は午後、自らタイプライターで打ち直した。


そして、観察。
そこには想像の入る余地はほとんどなかったのではないか?
自分の外にあるものを観察する。
内面を観察する。
何よりもまず、彼女は全てに対する傍観者だった。
書くという局面に当たっては、自分自身に対してもそうだった。

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彼女は小さな頃から書くことが好きだった。
天性のもの。生まれながらにして小説家だった。


小さい頃から家庭内で新聞を発行していた。
大人になってからは日々膨大な量の手紙と日記を書いて、食べていくために評論を書いて、
そして長い時間をかけて何度も何度も書き直して長編を仕上げた。


書くということに対して、何の理由もなかったのだと思う。
書かずにはいられないのだ。


しかし、彼女は誰でも書けるような内容のことは書かなかった。
ヴァージニア・ウルフにしか書けないようなことをヴァージニア・ウルフは書こうとした。
そうでなければ、意味がないではないか。


ものすごくざっくり言うならば、彼女は書くという行為を通じて、
自分という存在を探そうとした。
それは「自分探しの旅」みたいな安直なものではなく、世界と自分との位置関係のようなものだ。
そこでは自分という存在は無に等しく、世界というものもまた無に等しい。
ただ、そこにある。
それゆえにそれが何なのか、分からない。
書けば書くほどその手からすり抜けてゆく。
自分はこの世界をどんなものとして捉えているか?
一言で言えば、彼女の作品はその記録なのである。


世界という場があって、その先にあるもの。
それを言葉で描きたくて、もどかしい思いで常に胸をかきむしっていた。
具体的な「物」ではなく、もっと抽象的で、概念ですらないもの。
言葉にすればするほど遠ざかっていく。
ぼやけた輪郭以外に描きようがない。
一つには、それは「普遍」と呼ぶべきものとなるだろう。


(だから登場人物なんてものはどうでもよかった。
 リアルな人間を描写すること、創造することには興味がなかった。
 ストーリーすら、興味がない。


 そしてそれは現実でもなく。
 彼女は具体的なこの世界についても、興味がなかった。
 この「世界」をよりよくすることにはもっと興味がなかった)


もう一つには、「時間によって現されるもの」とでも呼ぶべき何か。
もしかしたらそれは彼女にとって、世間一般に言う「真実」を指していたかもしれない。


そう、時間。
心の中に流れる時間は、正確な時刻を刻む必要がない。
その人の中でいくらでも伸びたり縮んだりする。
絶えず過去に遡っていく。
そうすることで自分というものを、この世界というものを捉えようとする。


記憶、ではない。それはあくまで、意識なのだ。
それが捉えたもの、が全てとなる。


バラバラになりそうな(内的)世界を統合すること。
書くことによって自分というものを繋ぎとめる。


こんな作業を一人で続けるのだから、
作品を生みだすという過程において彼女は孤独だった。


レナードはいつだって側にいて、彼女を支えようとした。
病の悪化しそうなときには、彼女に安静を与え、医者を呼びに行った。
しかしそれは現実の世界にかろうじて引っかかっている肉体をどうこうすることでしかなかった。
彼女は肉体を信じていなかった。それは器に過ぎなかった。
例えば、肉体的な接触を伴う、生身の情欲をうまく扱うことにかけて、恵まれなかった。
レナードとはついぞ肉体関係を持てなかった。
40歳を過ぎてようやく、ヴィタ・サックヴィル=ウェストと何度か持てただけだった。
(それでも彼女はレナードを愛し、その遺書では
 「二人の人間が、わたしたち以上に幸福であり得たとは思いません」と語る。
 それが彼女の、愛だった。愛は書くという行為には、何の関係もない)


だからといって、精神を信じていたわけではなかった。
そのどちらかだけで人間を語ろうとすることにひどくもどかしさを感じた。
そもそも二元論や一元論を嫌った。
彼女は全ては曖昧で、割り切れないものなのだ。


そんな彼女にとって、女性である、女性作家であるということは何の意味もなさなかった。
なぜ世の中の人がそういうことにこだわるのか、決して理解できなかっただろう。

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彼女の中にいた怪物。
それは脅迫観念のように、彼女に「書く」ことを強いる。


彼女は時としてそれを自らの病と取り違えることがあった。
もちろん、違うのだ。彼女はそこまで愚かではなかった。
そこに逃げ込むことに、意味を見いだせなかった。
(しかし時として足を踏み外し、奈落の底へと落ちていった。
 現実−世界−自分との間で重心が取れなくなって全てが反転する)


彼女はその正体を知りたいと思った。
そのために自らの内的世界へと分け入っていく。
伸縮自在な時間でもって観察する。
そこに彼女は分裂した、折り重なった何かを見つける。
自らの中で移ろいゆくもの。
自分の意思とは無関係に囁かれる言葉。
特徴を思い出せない、声としか呼びようのない声。


彼女はその怪物と戦い続けた。
書くことによって暴こうとした。
勝てない、ということは最初から分かっていた。


怪物は彼女に興味を持っていなかった。
その眼に彼女は映っていなかっただろう。
それゆえに彼女は怪物を必要としていた。
その姿が見えなくなると、一人心の中を彷徨ってその姿を探し求めた。


最終的に怪物は、彼女に死をもたらした。

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自分には言葉というものでしかそれを為すことはできないのだというもどかしさ。


言葉には言葉を。
移ろいゆく光景を自らの内に見る。
今、この瞬間にも全ては失われていく。


『波』の最後の個所からの引用:
「何かが一瞬まとまって円が完結し、重みと深さを持って、完成する。
 一瞬はこれが(彼女の)人生のように思える」