キャンドルランド(素案)

なつみさんは無言で運転し続けた。
スピーカーからはクラシックギターの音が微かに聞こえてきた。
真夜中、雪の積もった山道を行く。軽く吹雪。
右に左に揺れて、時々危なっかしく彼女はカーブを切る。
吊るされた熊のプーさんが飛び跳ねて僕の代わりに頭をぶつける。
小さな軽自動車。ライトに一瞬照らされた暗い木の枝が、ザワザワと通り過ぎていく。
これでもう二時間は走り続けている。
どれだけ奥まで来たのか。それはもっともっと遠いのだろう。
僕は目を閉じた。
東京からの新幹線に乗って着いたその日に僕はガイドに、なつみさんに、コンタクトを取った。
疲れていた僕はそのまま眠ってしまった。


「着いたよ」
僕は目を覚ました。
なつみさんがエンジンを切ると車体が何度か小刻みに揺れて、そしてシンと静まり返った。
なつみさんも僕もしばらくの間動こうとしなかった。
僕の左側の窓には雪のかけらがべったりとこびりついていた。
フロントガラスを通して外を眺める。
そこは狭い空き地のようだった。その向こうに果てしなく黒々とした森が広がっていた。


なつみさんが深呼吸をするのが聞こえた。そして車の外に出た。
僕も後に続いた。
吐く息は氷のように白く、耳がちぎれそうなくらいに痛い。
僕は慌ててダウンジャケットのフードをかぶり、顎のところから出ている紐をきつく絞った。
雪国は初めてではない。町もそれなりに寒かった。しかし、ここの比じゃない。
見上げると雲が分厚く折り重なって、蠢いていた。


なつみさんは後ろの座席を開けて、僕のバックパックを引きずり出した。
「こんなに持ってくることないのに」と言って笑う。
受け取って僕は背負う。確かにずしりと重い。背中にあちこち固いものが当たる。
これから先向かう場所のことを考えたら、非常用の食料だけでもよかったはずだ。
写真を撮ったところで誰かに見せることはできないというのに
僕はいったい何を持ってきたというのだろう? 自分でも思い出せなくなっていた。
ステンレスボトルを2本括り付けるのが見えて、なつみさんもまたバックパックを背負った。
そして巨大な懐中電灯を床から拾い上げる。試しに点けて、消す。眩しいぐらいだ。
車のドアを閉める。鍵を掛ける。使い捨てのカイロと共に、僕にも小さな懐中電灯を渡す。
「いい? これははぐれたとき以外には絶対使わないで。
 必ず両手を開けておいて、ポケットなんかに突っ込まないこと。
 必ず私の後をついてくること。何かあったらすぐに教えて。
 引き返したくなったら、素直に、そう言って」


僕は頷く。行くけど、と言ってなつみさんが歩き出す。
使い捨てカイロのパッケージを破きながら僕は尋ねる。
「ここからどれぐらいかかるんですか?」
雪は脛ぐらいの高さに積もっていた。
風で吹き寄せられたのだろう、ところどころ波が固まったように盛り上がっていた。
「早ければ、だいたい2時間。夜明けには間に合うと思う」
なつみさんのブーツがサクッサクッと雪を踏みしめる音。
彼女は既に森の入口に辿り着いていて、僕の方に向かって振り向いた。
その表情には何も浮かんでいない。
僕は改めてなつみさんのことを見る。
彼女が僕のよりもずっと分厚いダウンジャケットを着ていたことに気付く。
僕も雪の中を進み始めた。一歩一歩、踵を取られて引きずり込まれるようだ。
僕が入口に近付くと、なつみさんはフッと前を向いて中に入っていった。


そこは自然のトンネルのようになっていた。
背の高い木々がアーチを形作っていて、枝が絡み合っている。空は見えない。
そのせいか、雪は足首ほどにしか積もっていなかった。
他に誰かが歩いた形跡はない。
生きているものが生存している気配もない。
鳥たちは冬眠しているのだろう。
いや、薄ら寒い雰囲気に満ち満ちたここは「死滅した」という言い方の方が合うかもしれない。
ここは森の入口にして、既にして世界の果ての入口でもあるのだ。
遂に僕はここまで来た。
目の前には、永遠に続くかのような果てしない暗闇。
それを抜けると、雪原が広がっている。
その向こうに、そいつは、例えて言うならば裂け目は、口をポッカリと開けて待っている。


なつみさんはその暗闇の中を、前を照らしながら黙々と、淡々と進み続けている。
手馴れたもんだ。
なつみさんを紹介してくれた人によれば、彼女は親子二代に渡ってのガイドなのだという。
彼女の父親もまたそうだった。
優秀なガイドだった。政府や外国の大学の調査隊をも案内した。
大勢の人間が彼の手引きで向こう側へと渡った。
そして言い伝えの通り、二度とこちら側には戻ってこなかった。
あるとき、彼はいなくなった。まだ小さかったなつみさんを残して。
町の人たちは「あいつもまたあちら側へ渡ってしまった、あれに魅入られたのだ」と噂しあった。
そこに広がっているのが何なのか、その目で見てみたい。
例えそれが、死に過ぎないとしても。


なつみさんはこちらのスピードに構わず、どんどん先に進んでいった。
僕は彼女の後を必死になってついていった。
時々、慣れない雪道に足を取られてよろめき、そのうち何回かは転んだ。
ドサッという音にその都度なつみさんは立ち止まって、無言で僕を助け起こした。
なつみさんは普段、駅前のデパートで販売の仕事をしているのだということを思い出す。
彼女もまた、いつかは向こう側に渡る日が来るのだろうか?
僕のように。ガイドされて、世界の果てを見に行く、この僕のように。


木々の隙間からなのか、どこからか雪が舞い降りてくる。
身を切るような風が吹き過ぎて行く。
余り転ばなくなってくると僕は注意事項を忘れて、
両手をダウンジャケットのポケットに突っ込んで、寒さに背中を丸めて歩き続けた。
世界の果て。
どうして僕はそいつを見てみたく思ったのだろう?
いつからだろう?
空虚な日々に見切りをつけるのなら、もっと他の方法があったではないか。
僕はそこにいったい何を期待しているのだろう?


「休憩にする?」
「あと、どれぐらいですか?」
「だいたい、半分」
そこは確かに休憩所のようになっていて、切り株がいくつか並んでいた。
なつみさんがバックパックから取り出したビニールシートの切れ端をその上に敷いて、座った。
ステンレスボトルを開けて、白のプラスチックのカップに湯気の立つ液体を注いだ。
「コーヒー飲む?ブラックだけど」
僕は受けとって、ゆっくりと飲んだ。おいしい。その温かさが全身に染み渡る。
なつみさんも予備のカップに自分の分を注いで飲み始めた。
彼女はいつもこの道を通って雪原へと案内して、ここで休憩時間を取って、
帰りは一人で戻ってきて、またここで休憩するのだろうか。
それとも一息に車まで戻るのだろうか。
このトンネルを一人きりで引き返すのはどんな気分がするだろう?
慣れてしまうとどうってことないのか。
僕は何も言わずに、何も聞かずに、コーヒーを飲み続けた。


一足先に飲み終えたなつみさんは「ここから動かないで、待ってて」と言うと、
バックパックを置いたまま、木々の陰に入って消えた。
僕はバックパックを雪の上に下ろして、ファスナーを開けて携帯を取り出した。
ぼんやりとした明かりが辺りに広がる。その周りに雪が舞い降りる。
あちこちから着信が入っていて、半分以上は履歴にない知らない番号だった。
メールもたくさん届いていた。
僕はそのどれ一つとして読まずに携帯を閉じると、切り株の根元の雪の中に押し込んだ。


なつみさんがどこからか戻ってきて「もういい? 行く?」と言うので、僕はカップを返した。
彼女はステンレスボトルを括り付け直して、バックパックを背負った。
また歩きだした。


僕は何かを考えるのをやめた。
なつみさんの懐中電灯が照らす、目の前の枝の絡み具合を眺めながら歩いた。
あるとき遠くで何かが吠えるような音が聞こえて、僕は立ち止まった。
しかしなつみさんは意に介さず歩き続けるので、僕も気にしないことにした。
またあるときは大きな黒っぽい鳥が突然どこからか現れて、
力強く羽ばたきながら飛び去って行った。
そのときだけは僕はなつみさんを呼び止めて、「今の鳥は?」と聞いた。
しかし彼女も知らなかった。
肩を竦めて、「観光ガイドじゃないんだし」


そこから先はただひたすら歩き続けた。
二人のブーツが雪を踏む音、二人の呼吸、二人のバックパックがずれてきしむ音。
それ以外に何も聞こえなくなる。
僕はチラチラ足元を見て、雪に足を取られないように規則正しく足を運び、
一定の間隔で呼吸を繰り返した。
近付いている。近付いているはずだ。
僕にはそれを感じることはできない。しかしきっと、もうすぐのはずだ。


やがてトンネルの向こうに、光のようなものが見え始めた。
光とは違う。色のあわいの違いとでも呼ぶべきか。紺色の何か。
夜明けが始まっているのか。
「あともう少し」となつみさんは呟くように言う。
足を前に運ぶうちに、それは少しずつ、少しずつ大きくなっていった。
最後、僕はなつみさんがいるのを忘れて駆け出していた。


見渡す限りの雪原が広がっていた。
遮るもののない、雪の地平線。
夜明け。視界の全てが灰色っぽい、青い光を反射していた。
僕は笑い出した。そして目の端に涙を浮かべた。


「ここよ」となつみさんは言う。
「ここから先、あなたは一人で行かなければならない」
バックパックを下ろすと、なつみさんはもう一つの小ぶりなステンレスボトルを僕に渡す。
「お湯が入ってるから」
さっきのボトルを開けて、コーヒーの残りをカップに注ぐ。
「今からだと、夕方までにそこに辿り着けると思う。コンパスはある?」
僕はダウンジャケットの胸ポケットを叩いた。
「とにかく、北に進めばいいから」


いつの間にか雲はなくなり、晴れ渡っていた。
空の色は灰色になり、水色へと変わっていく。
僕となつみさんは雪原の入口に立ち尽くして、その移り変わりを眺めた。
誰かとこんなふうに夜明けを眺めるのなんて、
もしかしたら僕の長くて短い人生で初めてかもしれなかった。
僕はそのことをなつみさんに話した。
彼女はそのとき、笑った。一瞬だけ、微かに。儚いものを慈しむように。
太陽が、東から昇り始めた。


コーヒーを飲み終えた僕はカップを返した。
「ありがとう」
そして僕はバックパックを背負った。
「止めたりはしないんですか?」
「行きたいんでしょ? だからここまで連れてきたのに」


僕はもう一度「ありがとう」と言って、なつみさんに背を向けて雪原に一歩足を踏み出した。
そのまま二十歩ほど行って、僕は振り向いた。
僕が手を振ると、なつみさんは手を振り返してくれた。


太陽を右手に、僕はコンパスを常に眺めながら歩き続けた。
雪の中を進んでいくから思うようにはかどらない。
一時間ほどしてもう一度振り返った。
森は既にかなり小さくなっていた。
その間に大きな赤のダウンジャケットを着たなつみさんの姿が見えた。
僕が地平線の果てに消えてなくなるのを見届けるまで、そこで待っているのだろう。
僕はもう一度手を振った。さっきよりも大きく。
そうすると彼女も、手を振ったように見えた。
僕は何度も何度も手を振った。
「おーい」「おーい」と大声も出した。
だけど聞こえてくるのは僕の声だけだった。


また歩き始めた。
風が吹くようになった。いつのまにか空には雲が広がって、雪が降り始めた。
ここはもう世界の果てなのだろうか。
そんなことを思いながら、僕は一人、歩き続けた。