ドラマと葛藤

昨晩スパイク・ジョーンズ監督、チャーリー・カウフマン脚本の
アダプテーション』を見ていたら
脚本家志望の人を対象としたセミナーの場面があって、
「ドラマには葛藤が必要だ」と語られていた。
以前読んだ『ハリウッド脚本術』にも似たようなことが書かれていた。
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昔の僕なら否定的に感じたろうけど、今の僕はその通りだと思う。
葛藤がないとつまらない、ではなく、
葛藤こそが全ての根底にあるものだ、という意味で。


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Yahoo! 辞書(大辞泉)より


1 人と人が互いに譲らず対立し、いがみ合うこと。「親子の―」
2 心の中に相反する動機・欲求・感情などが存在し、そのいずれをとるか迷うこと。
 「義理と人情とのあいだで―する」
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「何も起きない淡々とした話」というものが僕も好きだった。
そこにはいわゆる葛藤、心の迷いがないかのように思える。


しかし、葛藤というものを広く捉えて、
その構造の中において複数の力が作用し合うこととするならば、
それがぶつかり合うのであれ、絡み合うのであれ、平行線を辿るのであれ、
葛藤のない物語というものは存在しない。
マクロな視点であれ、ミクロな視点であれ、どこかしらにそれは存在する。


一見何の事件もない日常の出来事を描いたようであっても
それが言葉にされたならば
作者と語り手、登場人物と出来事、どのような組み合わせであれ
そこには何らかの異なる力学とその「間」「関係性」が絶えず動いているのだ。
(本当に何も起きていないのならば、そもそも言葉に出されることもない)


それらを抽出して濃縮したのがドラマというもの。つまり、焦点。
人は力学の錯綜っぷりと行方の途方もなさに心そそられる。
その流れに身を浸してみたい。
語られたお話を「知識」として知りたいのではない。擬似的に体験したい。
そのために想像力というものが働く。


もっと言うとそれらの作品内で働く諸々の力は
個々の作品の中で生まれ、完結して閉じられたものではなく、
歴史の始まりの地点から今この瞬間、そして未来とされるものに至るまで
この世界を様々に覆い、貫いている無数の力を切り取ったものだ。
そしてそれは標本でもなく、剥製でもない。
作品は読者を通じて動いて、変化して、外とつながっていく。


私たちはいつだって想像力の浜辺を歩いている。
さざなみが寄せては返す。
津波が押し寄せて、全てを流し去るのを期待する。
そこで何と出会うか、何を話すか。


これまで何度か物語とは? ということを書いてきたけど、
現時点での僕のスタンスとしては以上となります。