フェミニズムについて考える

これまでの自分からは最も遠い場所にあるものについて、興味を持ってみる。
ということでフェミニズムについていくつか入門書を読んでみた。
市民革命としてのフランス革命がやはり全ての始まりであり、
第2次大戦までは男女の”平等”を求めるリベラルなフェミニズムが主流、
60年代後半以後は女性の解放としての”自由”を求めるラディカルなフェミニズムへ。
プリミティブな抗議”行動”としてのウーマンリブから
ジュリア・クリステヴァといった現代”思想”系が入り混じって今に至る。
与謝野晶子平塚らいてうに始まり、
ここ30年、日本での大御所はやはり上野千鶴子なんですね。
…といった流れが見えてきた。


それにしても20世紀の思想はどれもこれも
マルクス(資本と労働と階級)とフロイト(性と無意識と抑圧)という2大巨頭から
どう影響を受けるのか、それをどう乗り越えるのか、が課題であったのだなあ
と今更ながらにしてシミジミ思う。
家庭の中に閉じ込められて主婦は無報酬で働かされている、
第三世界の女性たちは何重もの階層的な差別を受けている、
という指摘はマルクス主義のメカニズムから導き出されたものであるし、
それを単純に性差と呼んでいいのか? それって何なの? と
セクシュアリティジェンダーのあり方を問うたのは正にフロイトが起源。
フェミニズムって実はマルクスフロイトが正面から激突した戦いの場であった。


一番最初に印象として感じて、今でも変わらないのは
フェミニズムは女性の相対化と絶対化の間で堂々巡りをしているかのように思える、
それは中心と周縁が絶えず裏返っているようである、ということ。
結局は人それぞれってことになるんだろうけど、
女性/男性という括りからそもそも解放されたいのか、
女性であるということを大切にしたいのか。
例えば「母性」っていうのはどう位置づけることになるのか。


(ここ数日考えて、男性も女性も主婦であることも母親であることも、
 全ては「役割」として捉えるべきなのではないか? 
 という結論に僕は達した)


(もうひとつ今でも分からないのは
 そのゴールにあるものは、男性との和解なのだろうか? 
 何がゴールなのかイマイチよく分からない。
 女性さえ「幸福」ならばそれでよいのか。
 そこのところの歯切れの悪さが、フェミニズムというものを
 どこか曖昧なものにしているように思う。
 結局のところ、フェミニズムとは目的なのか、手段なのか。
 でも、この議論は余り本質的ではない)


一番大事なキーワードはどうも「ジェンダー」であるようだ。社会的文化的性差。
ジェンダーという考え方がそもそも西欧近代的二項対立
(男性/女性、公/私、自然/文化 などなど)
に囚われ過ぎていることに勘のいい人は気付いた。
なのでそこから脱してどこに向かうべきなのかを模索する、
というのが80年代以後現在も続いている。
大事なのは性”差”ではなく、性の”ありよう”なのだ。
ジェンダーは社会的文化的にそれがどう表現されるか、と捉えるべきなのである。
その文脈から様々なものが出てきた。
ゲイ/レズビアン・カルチャーの肯定であるとか、両性具有的なイメージであるとか、
その前に人である生命である器としての身体であるという考え方であるとか。
エコロジーという全然別な軸に移っていくこともありえる。
ポルノグラフィーは何と結びつくか。フェティシズムとの関係は?


そもそも、男女という性別は生物学的事実として、
なぜそこに性”差”を見いださなければならなかったのか?
母権制から家父長制へと切り替わってそれっきりになったこの世界に対する理由付け。
それは鶏が先なのか、卵が先なのか。
そういう議論をウダウダやってても仕方がない、
「我々は言語をもったサイボーグ」なのだと切り出したのが
アメリカで今や女性学の必須テキストとされる(とどこかに書いてあった)
ダナ・ハラウェイの『猿と女とサイボーグ』だった。


そんなこんなでフェミニズムって
アメリカは21世紀の今どうなのか分からないけど
日本では一頃ほど盛り上がっていない。…と思う。
「アグネス論争」や田島陽子センセイの「冠つきフェミニズム」は遠い昔。
かつて世の中を騒がせた分、
今はその揺り戻し(バックラッシュ)の時期に入っている。
もう十分女性が社会進出したしフェミニズムは役割を終えたんじゃないの? とか。
保守層はジェンダー・フリーや過剰な性教育を毛嫌いし、
「女性は家庭へ、男性は会社へ」という古きよき価値観を再度掲げる。
そう言えば先日読んだニュースでは
日本人の20代女性の「主婦願望」が高まっているとのことだった。
(でもこれはフェミニズムへの反動だけではなく、
 長引く不況だとかいろんなものが絡み合ってますが)


もうしばらく考えるのですが、気になるのは
そこにどんな「負」があるのかということ。何が反転しうるのかということ。
性差、女性が社会的に一段低い位置に貶められていた・いることそのものではなく、
その背景にあるもの。
例えば、網野史学的遊女や巫女の流れとどうつながっていくのか。
例えば、不遇な女性作家たちの系譜。
ジェイン・オースティンやブロンテ姉妹のような名声はほんの一握り。
多くの女性作家たちは忘れられていった。
それは意図的な作用が込められていたのではないか。
ヴァージニア・ウルフの『自分だけの部屋』に描かれた有名なエピソード。
シェイクスピアの妹は兄に負けないだけの文才がありながら、
女であるというただそれだけの理由で世に出ることができなかった。
そういえば、これもどこで読んだのか思い出せないんだけど、
ジョージ・エリオットは妾となることで暮らしていけるようになり、
男性名であるジョージを名乗って作品を発表したということ。
などなど。


長くなったので今回はこの辺で。