夏の話

夏と言えば…


小さい頃に読んだ話。創作なのか実話の投稿なのか。
思い出して、脚色して書いてみます。

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私はいつもこの時期になるとN沢へと釣りに出かけます。
山奥。渓流釣りですね。
自分で運転するのではなく、いつもは友人に乗せてもらって行きます。
その日はたまたま私一人で、電車とバスを乗り継いで、でした。


ここと決めていたポイントがあってそこで1日を過ごして、夕暮れ時、
そこそこ釣れたクーラーボックスを抱えて私は森の中を歩いていました。
…ふと気がつくと、知らない道に迷い込んでいる。川の音も聞こえない。
さてどうしたもんか。そんなに長い距離を歩いてないだろう、引き返すか。
そう思って来た道を戻りました。


そのうちに林道なのか、狭い道路に出ました。
対向車が来たらすれ違えるかどうか。とはいえ道路は道路。
ああよかった、なんなら通り掛かった車に乗せてもらえばいいだろう。
そう思って左へ、日の暮れかけていた方角へとゆるい坂を下っていきました。
ガードレールもなく、ミラーもなく。標識もない。
砂利道が続くだけ。私1人。
その頃はまだ、暢気に鼻歌なんかを唄ってました。


音がしたように思って振り返ると
古びたバスがゆっくりと近づいてくるところでした。
どこ行きなのかはよく見えません。
立ち止まって眺めていると、バスもまた私の目の前で停まりました。
ドアがギシギシしながら開きます。
おおよかった、と思ってとりあえず乗り込みました。
後ろの方の席に座りました。
クーラーボックスを脇に置いて、釣竿の突き出たリュックサックを下ろしました。


運転手と、なぜかバスガイドが乗っていました。2人だけ。
他に乗客はいませんでした。
2人とも制服の帽子を深くかぶって、目元は見えませんでした。
でも、大きく口を開けて笑っている。
人懐っこくもなく、皮肉っぽくもなく、ただただ、声もなく笑っている。
そしてこっちを2人して見ているんです。
バスガイドは真っ赤な口紅をして。運転手も無精ひげを生やして。


バスが走り始めました。ノロノロと音も立てずに。
車内を見渡すと広告は色褪せていて、路線図も破れている。
バスのシートも網棚も、あちこちがほつれている。
窓の外を見ると単調な景色がずっと続きます。森の中。
そして10分なのか20分なのか。
おかしい。どこまで行ってもバス停に到着しない…
同じスピードで走り続けている。
そしてバスガイドは立ったまま、身動きもせず、ずっと私の方を見ている…


私はリュックサックとクーラーボックスをひっつかむと、前方に駆け寄って、
「下ろしてくれ」「いいからここで下ろしてくれ」
するとバスはそこで停まりました。
2人が相変わらず、笑いながら私のことを見ています。
ギシギシと音を立ててドアが開きました。
私はお金も払わず、外に飛び出していました。


…気がつくとバスはどこかに消えていて、目の前には古びた灰色の建物が。
黒ずんだ煙突、全ての窓ガラスが割れていて、とっくの昔に打ち捨てられている。
見ると入り口に看板があって、読み取れた文字は
「火葬場」


そこからどうやって帰ったのか。
全力で走って、どこをどう走ったのか。
藪のようなものをくぐりぬけて外に出ると、
見知った国道が広がっていたのです。


私はN沢には二度と近づきません。釣りもやめました。
しかし、あの日置き去りにしたクーラーボックスとリュックサックは
あの廃墟の前にそのままとなっているのです。
そのことを思い出さない日は
1日たりともありません。