モノが無くなる社会

昨日昼食べていたら「岡村さん、今のとこ長いですよね、引越ししないんですか?」
という話になる。僕はいつものように
「荷物が多すぎて無理、結婚とか大きなイベントが無いとね」と答える。
その後考える。ものぐさというのもそもそもあるけど、
旅行や出張が好きでどこかに行きたがる分、自分の住む部屋というものは
ここと決めたらずっとそこにあってほしい。変えたいと思わない。
(逆に、旅行は興味ないけど引越しは好きという人も世の中にはいるのだろう)


それともう1つ考えたこと。
僕の場合、膨大な量の本やCDがネックになっている。これが全て電子書籍になり、
音楽も全てデジタル化された音源をダウンロードして聞くようになったら。
部屋の中はかなりなところスカスカになって、服と布団と食器ぐらいしかなくなる。
身軽になる。…とはいえこの年になると根強い「モノ志向」を変えるのは難して、
まあこのまま生きていくのか。


しかし何十年後か先、何事も安価に済ませるならば
物理的に固定された媒体に(例えば)文字情報を保持することはなくなって、
部屋にあるのはその時々でダウンロードしたものを
表示して操作するためのデバイスだけ。
住む場所を変えるということに対する敷居はかなり下がっているのではないか。
その頃に生まれる世代は完全に意識が違っている。
「思い出の品」なんてものはなくなって
「思い出のデータ」となっているのかもしれない。
もしかしたら服やインテリアなんてのもこだわりはなくなって、
デザインも素材もデータとして表される属性に過ぎないという傾向が高まっている。
モノを集める、コレクションする、それを展示する空間を持つというのは
ほんの一握りの金持ちだけの特権となる。

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既に半世紀以上前にベンヤミンの「複製芸術」が語られているので
僕なんかが言うまでも無いが
絵画というものも形ある作品それ自体の存在感は問題なくなり、
画像なり、特定の時空間に置いた映像として共有されることになる。
それは単なるデザインや意匠に過ぎなくなる。
静止した情報がどんなふうに利用されうるか、それだけが価値となる。


その反動で一点ものが人気となる。
fritag のようなハンドメイドのリサイクルバッグだったり。
「差異」じゃないんですよね。
直接的に「それ」としか呼びようの無い状態まで高めないと個性として認められない。
(理論的には可能だけど、それとは別に商品の位置づけとして)
複製不可能となること。
一般的な商品よりもかなり割高だとしても、そちらを選ぶ。
そういうのがもてはやされる今、この時代は過渡期にあると思う。