ノイズというもの

常駐先のオフィスに2年近く置きっぱなしだった開発用のサーバ群が
先週末、データセンターへと移設された。
部屋の中がとても静かになった。
IT業界に勤めている人、コンピューターに詳しい人ならば知っていることであるが、
こういったサーバ機は冷却用のファンが常に稼動していて
とてつもなく大きな音を立てる。側にいると会話が成り立たないほどだ。
それが急になくなると、なんだか落ち着かない。
騒々しいノイズがそこにあって当たり前だった。慣れとは不思議なものである。


自分の部屋に戻っても、冷蔵庫がうなりを上げている。
学生時代からもう10何年と使ってきてガタが来つつあるのか。
裏側の何かのパーツが振動している。
誤ってその辺りに雑巾を落としたら音がやんで静かになった。
どちらが正しい状態なのか分からないので、雑巾を取り除いた。
その時々の状態に応じて、強く震えたり細かくなったり、一切振動しなくなる。
その音を聞きながら眠っている。ああ、今日は調子がいいんだな、よくないんだな。
震えが大きいとその分消耗が激しそうで、気になる。どうにかしてあげたくなる。
しかし、不快ではない。


こういうノイズが嫌にならないのは、リズムのパターンが一定か、
起伏の無いドローンのようになっているか。
変化がなければ人はそれをなんとはなしに受け入れてしまうものである。
そして変化が無いというのは、認知・解釈すべき意図や意思がそこに無いということ。


この手のノイズの怖さはそれ自体になく、
何か別の物音を覆い隠してしまうということ。
そこで本物の変化の兆候が起きていたとしても聞き逃してしまう。
そして、そこにあるものを無自覚に受け入れて考えなくなってしまう。
(生理学的に、特定の周波数だと特に、というのもあるかもしれない)
少なくとも小さな物音は紛れ込んで、消えてなくなる。


いや、それは美しいメロディーを持つ音楽や会話における声にあっても同じことか。
何かを前景化するとその分何かが後ろに引き下がる。


そうだ。
意味のある音や声、意味の無い音や声が無数に重なって聞き分けられなくなる。
それをヘッドホンで24時間以上聞かされ続けたならば
多くの人は平衡感覚を失って発狂するのではないかと思う。
視覚−映像では恐らくこのようにならない。
意味のある映像、意味の無い映像を
チカチカとめまぐるしく見せられても限りなく疲弊するだけ。
これは脳の70%が視覚に用いられる、その分処理能力が高くキャパシティが大きい
ということに関係するのではないかと考える。何の根拠も無い仮説だけれど。