編集学校の教え子が所属する筑波の劇団「百景社」が
東京で公演を行うというので先ほど観に行ってきた。
今回は太宰治の『女生徒』を一人芝居で。
前回は『斜陽』だったので、続いてますね。
僕は見てないけど『走れメロス』の一人芝居も昨年はあったようだ。
http://www17.plala.or.jp/hyakkeisya/info.html
場所は昨年イヨネスコの『椅子』を観た板橋の「atelier SENTIO」
ごく普通の民家というか昔はアパートだったんだろうな。
線路沿いにあって電車が通ると揺れる。
太宰の『女生徒』を好きな人、
好きにはならなかったけど印象には残ったという人は多いでしょうね。
『人間失格』は魂というか生き様としてヤられたけど、
『津軽』は青森県民としてとても心に響いたけど、
太宰の小説家としての言葉のすごさに改めて気づかされたのは
僕はこの『女生徒』だった。
女性の文体を真似て書くというレベルじゃないよね。
どうやったら14歳の少女の視点でこの世界を感じることができたのか?
(実際には元になったとある女性の日記があるわけですが)
現代から作品の舞台である1938年5月1日にタイムスリップして、
朝、目覚めのところから始まって、原作に忠実に夜眠るところで終わる。
しかしその途中のあちこちで効果的なプロンプトの利用など
百景社ならではの仕掛けが挟まるわけで…
こんなことを考えた。
一人芝居と言いつつ、照明がいて音響がいて、
…と舞台裏にはいつも通り何人かのスタッフがいる。もちろん、演出もいる。
それってただ単に登場人物が一人の演劇に過ぎないのではないか。
本当の一人芝居ってのは役者一人がふらっと屋外で、路上で、
独りでに始めるものではないか?
そこでどんな言葉を発するか、どんな動きを放つかはその場の空気の流れで決める。
台本すら存在しない。
見終わった後、教え子と会って少し話す。
彼女は今回舞台に立ってはいないが、プロンプトの操作を行った。
劇団員全員が何らかの形で今回の公演に関わっている。
そして、演じる内容は皆で意見を出し合って決めていったという。
そうか。演出家の中に全てのイメージがあって
その指示通りに動くというのではないのだな。
もし自分が出演したならば内容はガラッと変わっただろうと彼女は言う。
なるほど、と思った。今回舞台に立った一人はあくまで
劇団全体という有機体のある一面を切り取ったということか。
集約し、代表する。そういう意味での一人芝居か。
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その後聞いたこと。
昨年秋に『斜陽』を見に行った筑波の「矢中の杜」のお屋敷と
その周辺の商店街が先週6日の竜巻でまさに直撃を受けていたのだという。
ニュースで流れていた北条商店街がまさに、そう。
そうだったのか…
http://yanakanomori.tsukuba.ch/