Yahoo ! トップページを見ていたらこんな動画があった。
「ゾンビ化した父が娘を守る行動が感動的」
http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/movie/pe4e587627878bab10c5aa78e59bbe08a
オーストラリアのショートフィルムフェスティバルの
最終予選まで残った作品のようだ。よくできている。
確かにこれは、切ない。
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』『ゾンビ』『死霊のえじき』
ジョージ・A・ロメロの3部作に始まり、
『死霊のはらわた』『バタリアン』
『プラネット・テラー in グラインドハウス』『28日後…』
『バイオハザード』『ゾンビ・ストリッパーズ』『ゾンビランド』まで。
(『高慢と偏見、そして殺人』ならぬ)『高慢と偏見とゾンビ』
『ぼくのゾンビ・ライフ』なんて小説もあった。
ロブ・ゾンビというミュージシャンは
映画監督としても成功し、今も大活躍だ。
なんで人はゾンビというものが好きなのか?
単なる恐怖感とかグロテスク趣味というだけではなく、
「人の変わり果てた姿」というものが好きなのだと思う。
身体的なものであれ、境遇的なものであれ。
ワイドショーで扱う猟奇的な事件も、そう。
尼崎の事件であるとか。
転落の人生、というのもそうだろう。
そしてそこに人は回復の物語を期待しない。
一度突き落とされたならば、我々の領域に戻ってきてはならないのだ。
(回復がテーマならばそれは、取り除くことが本質的に可能なんだけれども
なんらかの理由で今は取り除けない一部の身体的「特徴」として表れ、
困難の解決や敵との戦いの勝利をきっかけとして外れるようになる。
一寸法師であるとか昔話を参照)
昔のSF映画にはよく、マッドサイエンティストが
キチガイじみた人体実験の末に
あれこれ人間外の生物と融合させるというテーマがあった。
生み出されたモンスターが人間に戻ることはない。
殺されるか、自ら死を選ぶしかない。
『エイリアン4』でエイリアンと融合された女性は
培養機の中から「私を殺して!」と叫ぶ。
同じように人間性というものも
一度失ったら二度と取り戻すものではないのだ。
覗き見た者はそれが自らに降りかかったものではないことを知って安堵する。
無意識的にであれ、平凡な日常生活を少しはよしと思えるようになる。
そんな犠牲により我々の精神生活は危うく成り立っているわけで。
残酷なものだ。
ゾンビ映画というものは、スリラーとしての緊迫感を保つために、
主人公は最後に生き延びるが
この世界そのものは終末に向かっているという結末がやはり面白い。
「それでも生き延びている自分」に自らを重ね合わせる。