ある朝目覚めたら「毒虫」になっていることを考える。
布団の中でモゾモゾする。
首を持ち上げることができない。寝返りも打てない。
そもそも動かす手足がないことに気づく。
いや、手足はある。しかもゾワゾワと無数に。
視界の外れでそれは僕の意志に関係なく蠢いている。
(オーソン・ウェルズの『審判』
ミヒャエル・ハネケの『城』
『変身』はどれぐらい映画化されているのだろう?
「毒虫」をいかに表現するか、
そのグロテスクな姿をいかに映さないか、が焦点になってしまわないか?
「毒虫」を「毒虫」として具体化せず、
寓意的表現として人間のまま演じていたら映画化の意味が無い。
いや、むしろそれは「あり」なのか?)
家族や友人たちは変わり果てた僕の姿をいったいどう思うだろう?
どんな視線を送るだろう。どんな言葉をかけるだろう。
そんな想像をするだけでも辛い。
周りの誰であれ、僕にしてあげられることはない。
そんな彼らに対して、僕がしてあげられることはない。
だから僕は誰にも知られず、鍵のかかった閉じられた部屋で
ひっそりと一人きり、布団とともに朽ち果てて行くことを考える。
そこは高いところにある屋根裏部屋で、窓から明かりが差し込んでくる。
その白い光が一日かかって広がったり短くなったり
移動するのを僕はずっと眺めている。
その頃には僕の感覚や記憶や思考は失われて途切れ途切れとなり、
鳥が横切りあるいは窓枠に止まって影をつくったとしても
僕の意識は反応しようとしない。
死を迎え、ベッドの木枠や布片と共に埃となり砂と還る。
その建物が取り壊れるのが先か、死骸が見つかるのが先か。
いや、そんな美しい日々を辿ることはない。
僕はすぐにも発見される。そして、
見世物になる、標本となる、石を投げられ火を付けられる。
残酷な子どもたちが笑う。残酷な大人たちが嬲る。
僕は、僕の身体は、黄緑色の液体を垂れ流す。腐臭を放つ。
僕は人間だった時のことを思い出す。
(『変身』を最初に読んだのはいつのことだったか。
どんなストーリーだったか、どんな登場人物がいたか、
今となってはいろんなことが思い出せずにいる。
ある朝目覚めたら「毒虫」になっていたというただそれだけ)
芋虫が巨大な蝶や蛾となることもあるのか。
それはどこへ飛んでゆくのか。
変態を果たした僕はきっと「僕」を忘れてしまっているだろう。
あるいは閉ざされた部屋で羽を広げられずにいるか。