「福島原子力災害のあとさき:不可能な逃避?」

金曜はその後、日仏会館で開催される上映会+討論会
「福島原子力災害のあとさき:不可能な逃避?」に参加するために恵比寿へ。
昨年から関わっている「ふくしま」のイベントの関係で
何人かで聞きに行くことになった。


上野から銀座線に乗って渋谷へ。
ジョージ・オキーフの評伝を読んでいる内に眠ってしまう。
渋谷ではレコファンで Camera Obscure の2枚目と
John Scofield と Medeski, Martin & Wood が共演した「A Go Go」の日本盤を見つける。
その後タワレコで Helge Lien Trio と Atomic の日本盤と
この頃また集めだした Swans 「Various Failures」を。


山手線で恵比寿。ガーデンプレイスまで歩いて行って、広尾の方へ少し。
日仏会館は初めて入った。平日の夕方なので年配の方が多かった。
http://www.mfj.gr.jp/agenda/_data/2014-06-13_Fukushima_bordeaux.pdf
アラン・ソーリエール、ティエリー・リボー監督による2作品
『Dissonnances(不協和音)』(2010)と 『Gambaro』(2014)を観る。
それぞれ50分ずつ。どちらも日本で撮影している。
最初に監督のひとりが出てきて挨拶をする。
これはドキュメンタリー映画なのではなくて、学術的な記録なのだという。
うーん、逃げを打ってる? 確かに出来栄えは素人レベル。
しかし、特に後者は外国人の視点で
東日本大震災以後の福島内外の人々を捉えているので、意味があるのだろう。


前者は震災前の日本、日本人の若者のある種の特徴というか。
京大の吉田寮という木造の古びた格安の寮に住む学生、
同じく京大でストライキと称して居座っている元大学職員たち、
代々木公園のホームレス村に住む若者たち、
高円寺の「素人の乱」の松本哉などを捉える。
社会や世の中に反発しているようでいて妙に自己完結している。
僕なんかは観ていて嫌な気持ちになる。いいから働けよ、と。
こういう人たちとは一生相容れないのだろうと思う。
監督たちは否定するのではなく肯定するのではなく、どこか同情的か。
誰が悪いというのではなく、ただただ、
社会の底辺で満足して居心地の良い場所を見つけた若者たちがいるというか。
そのことが中途半端にほっとかれている日本。


後者は山梨の山奥で東電の電気に頼らず自給自足している夫婦や
同じく山梨で全共闘世代を中心に福島の反原発運動と共鳴する人たちに始まって、
福島に入ってからは原発で働く人たちの風景や仮設住宅に暮らす人々などを。
ある方の語る農家の話が印象的だった。
「収穫された米の放射性物質を測ったところ300ベクレルだった。
 WHOの基準では100レクベルだが、国内基準では500レクベル。
 だから出荷したけど、自分や孫には絶対食べさせない。
 そのような米が全国に出荷された。日本は汚染された」
さて、このことをどう捉えるか。
このようなことをしたのはあくまで福島の一部の人なのか、普通のことだったのか。


これらの発言の中では福島フォーラムという映画館を経営している方の話が、
その後の討論会(出演者の何人かが登壇していた)で話したことも含めて興味深かった。
(以下、記憶違いもあるかもしれませんが)


「今、福島に住んでいる人たちは全員がプールに放り込まれて
 鼻をつまんで息ができなくなるのを我慢比べをしているようなものだ」


「震災後たくさん作られた福島と原発に関する映画を集めて上映した。
園子温監督の『希望の国』を上映する場面があった)
 客席では短パンにTシャツで普通に映画を観るつもりで来た人たちと
 重装備でガスマスクのような出で立ちの人とが隣り合っていた。
 隣の人の考え方の違いとでも呼ぶべきものがこのような形で現れていた」


「一年目はひたすら怒っていた。
 二年目は怒りが色褪せることに対して怒った。
 三年目は全てが色褪せていった」


東京国際映画祭の後でヴィム・ヴェンダース監督が
『ピナ』を福島で上映したいというので福島フォーラムに150人の市民を招いた。
 上映会の後の質疑応答は映画のことだったり、核心に迫らない発言が多かった。
 最後になってヴェンダース監督が逆に福島の人たちに問いかけた。
『私にできることは何かないのでしょうか?』」


原発の事故の直後、福島市は27ミリシーベルトだと政府機関から発表された。
 確かに事実は告げられた。
 しかし、それがどういう意味を持つのか、説明は一切なされなかった。
 福島の人たちは初めて、自分で考えなければならない状況になった。
 私たちは常に、質問にならない問いに晒されている」


「かつて(ホロコーストを扱ったドキュメンタリー映画)『ショア』を観たときに
 心動かされた。今、福島に暮らす人々も
 アウシュビッツやゲットーに暮らしてた人々と何も変わらない。
 そこを生き残ぬいて今2世・3世の方たちと心情的につながっている。
『ショア』を観たときにはなんでアウシュビッツやゲットーの人たちは
 逃げ出さなかったのだろう? と不思議だった。
 今にして分かった。それらを生み出すのは世の中の無関心と無理解なのだ。
ハンナ・アーレント』を今年初めに上映したが、
 そこで描かれていた凡庸な悪がそこにはある」


終わって駅前まで出て、今回の映画についてあれこれ話しあう。
僕がこれから先撮ることになる短編作品についても。
遅くまで飲んで、中央線で帰ってくる。