福島へ その3

8/14(木)続き。


富岡町に入る。やはり無人の町。
4月に規制が解除されて住むことは可能になったもののかつての住人は戻ってこない。
最初に入ったエリアは地震津波の影響がなかったのか、建物の倒壊はなかった。
いくつかの屋根がやっつけ仕事で白い重石を乗せられていた程度。
昔読んだSFだったか、中性子爆弾は建物を破壊せず生物だけを殺すとあったのを思い出す。
自転車が何台も家の前で横転している。ポストの入口が塞がれている。
真っ暗になっていて、覗き込むとからっぽになったスーパー。
一見何も変わってないようでいて
そういった小さなことのひとつひとつに気付いたとき、ぞっとする。


津波で多くが流された地区へ。
建物がいくつか残されて、ほとんどが更地へ。
黄色にオレンジとカラフルな、土にまみれたショベルカーが
あちこちで寄り添いあって停止している。
その腕にはレンタルのニッケンと書かれている。
白や緑の直径1m・高さ3mぐらいの円柱が配置されていた。
何かの保管容器なのだろうか。
今にも倒壊しそうなのに残された家には何か基準があるのか。
持ち主が望んでいるのか。そんなわけはないか。
完全に倒壊したわけではない家は後回しにされたのか。
草むらの中に車やトラクターが横転して錆付いている。ひしゃげて歪んでいる。
真っ黒な薄っぺらいプラスチックの板に「viera」と書かれている。
その家の柱には誰かが後から付け加えたのだろう、千羽鶴がくくりつけられていた。


別な家は除染後の黒い土嚢で1階が埋め尽くされていた。
「8/5」とあるのは日付か。
その下に「可燃」「レンガ」や「家電」などと書かれている。
ここでは黒い袋は家電や家財道具の選別に使われたか。
家の中に納まりきれず、外にも並んでいる。
最初の年にボランティアが集まってやったのか。
また別の家は居間があって隣の部屋にポールが渡してあって
ハンガーに服がかけられているのがそのまま残っていた。
ポールは服の重みでたわんでいた。
居間の鴨居には昭和天皇皇后陛下がご成婚されたときの
白黒の写真が手付かずで残っていた。
ある家は敷石と部屋の枠組みだけが残されていた。
その向こうに福島第二原発の白くてずんぐりむっくりした煙突が森の間から突き出ていた。


土嚢でいっぱいになった家の脇に土嚢に除染された土? を注ぎ込む
大型の装置が置かれていた。操作する人の姿もなく、静止している。
そのときセットされていた袋には途中まで何かが埋められていた。
黒い土嚢がこの一帯を埋め尽くそうとしているかのように増殖して並んでいた。
声もなく、希望もなく。
居住が現実的に不可能になった地域は
海辺の更地になった箇所のことごとくで土嚢が積み上げられていた。
片や他に行き場がない焼却することもできない負そのものの物体があって
片や誰のものでもなくなった誰にもどうすることもできなくなった土地がある。
不幸な結びつきとしか言いようがない。
この土嚢という現実を福島以外に住む人はどれだけ知っているのか?


気が付くと左肘から血が出ている。
(次の日になって赤く腫れていた)
蚊ではなく虻にでも食われたか。
ふと思う。この地域に住んでいる生き物の放射能の影響ってどうなのだろう?
3.11を経過して何世代がここに生き続けてきたのか。
このような生物との接触から内部被曝が起こる可能性ってどれぐらいあるのか。


その少し先の海辺に向かうと崩壊したホテル。
砂浜にはどんよりと土嚢が数百、数千、数万? と。
固まりとなって一見整然としているようで、無秩序。
作業している人の感覚に委ねられてなんとなく次から次に置いているのか。
死せる粘菌生物のよう。
そんな砂浜が淡々と続く。