「ふくしま、ひとしずくの物語」

おかげさまで昨日無事に「ふくしま、ひとしずくの物語」開催することができました。
参加された皆さん、ありがとうございます。
(ビデオカメラを借してくれたワタナベ君も来てくれた)


今回撮影・編集した映像作品も概ね好評価でホッとしました。
その上映前後にステージで話そうとしたことを残しておきます。


「なぜ、今回ふくしまの映像を撮ることになったのか?」


青森出身であるが東京で働いている。
3.11は東京で迎えた。以後、モヤモヤした気持ちがあった。
震災直後、青森市の母に電話をすると2日間停電したという。
八戸市津波の被害があった。
だけどそれは、誤解を恐れずに言えば、
福島、宮城、岩手に比べれば些細なものであった。
被害が少なくてよかったと言っていいはずなのに、なぜかそう言えない。
むしろ被害が少なくて申し訳ないという気持ちがある。
そんな歪んだ負い目のようなものがあった。


同じ東北でありながら福島に対してどう距離をとっていいのかがわからない。
それは皆、そうなのだと思う。
同じ日本でありながら福島に対してどう距離をとっていいのかがわからない。
それがモヤモヤしたものとしてずっと残っていた。


それまで東日本大震災のことは、
自分は「東京に住む一般人だ」という思いがあってできるかぎり中立でいようと思った。
最初の1年はそれでもよかった。2年目になっていてもたってもいられなくなった。
やはり自分の目で見ておこうと2013年2月に気仙沼陸前高田を訪れ、
何もかもが消えてなくなって更地になった陸前高田を見て愕然とした。
想像以上のことが起きていたのだということを知った。


今回、3年も経過していれば福島の浜通りも少しは復興が進んでいるのか、と思っていた。
東京に住んでいるとどの地域でどんなふうに復興がなされているのか、
よほど情報収集している人でないとわからない。
かつてほど復興について語られなくなったということは、
それなりに順調に進むようになってニュース性がなくなったのか。
そう思っていた。
そんなことはないんですね。
仮設住宅に避難して、それっきり行き場のなくなった人たちは高齢者を中心に今も多い。
かつて住んでいた町村のコミュニティーは失われ、福島の中でもよそ者となった。


富岡町の中心部、
富岡駅周辺では津波で崩壊した家や商店がそのまま手付かずとなっていて、
その内側も家財道具やショーケースが倒れて中の物が散らばって
それが灰色の泥をかぶったままになっている。
津波警報を受けて逃げ出して、それっきり戻らない、戻れないまま、
住んでいた人たちは避難生活を続けたか、津波で流されたか…


遺棄された土地。
その海辺は除染された土の詰まった真っ黒な土嚢が積み上げられ、埋め尽くそうとしている。
がん細胞が増殖するかのように。
そして3年が経過して、古くなった土嚢には名も無き植物が生えている。


福島はいかにして再生すべきなのか。
会津の源流、そこから流れ出す水の一滴が鍵となるのか。