他者としての登場人物

小説を書くというとき、その作品の中で登場人物が話したり行動する。
それは100%作者の頭の中から出てきたものかというとそうではなく。
一方で、書いている内にランナーズ・ハイになるというか
「下りてくる」瞬間というものがあって、
「自分じゃない何者かがこれを書いた(打ち込んだ)」と思いたくなることがある。
その時は確かにその登場人物がこの世に、僕の外に存在しているような感じがする。
ミハイル・バフチンの言う、小説の言説における「他者との対話」ってそういうことなのだろう。


その中間の段階もある。
下りてこなければ全てが作りごとかということはない。
登場人物の特徴や個性の総体としての「人格」(言動のルールの群れ)ができあがると、
状況や事件のきっかけを与えるとそこからブラックボックス的に導き出すことが可能となる。


 input → (ルールの群れ) → output


そのカッコの中の部分が自分/作者ではなしえない、予測し得ない、
偶然性に満ちたものとなる時もまた、
「他者との対話」がそこに生まれるだろう。


おそらく作家には二通りの人がいる。
・全てを自分の中で構築しきってから書き始める人
・書いていくうちにその作品の世界観やストーリーを見出していく人


後者だと、話が展開していくうちにちょっとしたことがもとで
「あ、この登場人物はこういう人だったんだ」と初めて分かることがある。
(先日、芥川賞作家である柴崎友香さんの講演を聞きに行った時もそういう話をしていた)


もちろん後者の方が他者性が強い。
作品の中にも言葉ではうまく語れない、不思議な魅力が増えていくことになるだろう。


意図的にこの「他者」を作品内に導入する方法があって、
他の作品から登場人物を借りるというものがそれ。
スーパーマンでもキングコングでも古畑任三郎でもいい。
確かにそれは自分以外の、外から来た「言動のルールの群れ」を持っている。


ちなみに、それがパロディとしてなされるのかそうではないのかで扱いは異なる。
パロディとするならばそこには登場人物の外見という外枠の中に
作者の意図が充満することになる。
作者はその有名な登場人物の振る舞いを真似ている。そこに他者性は乏しい。
しかし100%作者の頭の中から出てきたものではなく、
割合はそれぞれであるとして自分と他者との融合なのである。


しかもそれは単なる真似ではなく、その時代・地域に応じた諧謔精神がないと成り立たない。
古代ギリシャでもミメーシス(模倣)、アナロギア(類推)と並んで
ロディア諧謔)は創作の三大技法であった。


今日はここまで。