キリスト教というもの

キリスト教系の幼稚園に通っていたので
クリスマスの日はお遊戯会ではなく、保護者を集めて寸劇を披露していた。
イエス・キリストの生誕。馬小屋で、という例の。
僕は東方から来た三人の博士のひとりだった。
セリフはあったのだろうか?
なかったか、あっても一言ぐらいだったと思う。
マントのようなものを羽織って、ピカピカ光る装身具が厚紙で作られていて。
そういった衣装や小道具はもう何年も使われていたものだった。
どこか奥の方にしまい込まれていて、この時期だけ取り出して、またしまう。
いつまで使われただろう。


教会の礼拝堂がステージになって、
その後いつもの絵を描いたり歌をうたう部屋に移動する。
賛美歌を皆で歌ったり、といったこともあったように思う。
お菓子も出たか。ちょっとしたプレゼントももらったかもしれない。
ぼんやりとそんな記憶がある。
この時期だから外は雪だろう。
石油ストーブが置かれていたような。いや、幼稚園児にそれは危険か。
どうしていたのだろう? ヒーターから温風が出ていたのか。
今思い出すとそんな裕福な施設ではなかった。
本州の北の外れ、県庁所在地だからここにも建てておこうといった風情の
ささやかな幼稚園。


キリスト教との接点はそこで途絶える。
そこから先は中学校・高校で歴史の時間に習うものとなる。
あるいは大学以後、キリスト教の教義から生まれた哲学や思想として。
日曜は教会に通っているだとか
熱心にキリスト教を信仰している人に出会ったことはない。
だけどハロウィンであるとか
キリスト教文化圏のあれこれは身近に増えてきたように思う。
ヨーロッパを旅行すると教会の建物に入ってみたくなる。
自分にとっては異質な、日常から切り離された空間として。


なぜ新約聖書はあのスタイルなのか。
イエス・キリストの生涯を4人の人物が描くと
大筋のストーリーは同じでも細部の何を伏せて何を書くかのジャッジが異なる。
その中でも4福音書のうちヨハネはとても異質だ。
他の3人とは世界の見え方が違うとしか言いようがない。
後半はパウロの書簡というのも興味深い。


そんなことをつらつらと考えているうちに二子玉川に着く。
外に出ると雪。ホワイトクリスマス。