被災地を訪ねて一年

「ふくしま再生プロジェクト」が今年の活動を初めた。
来月頭には希望者を募って、
郡山で語り部の話を聞き、被災地を車で回って10km圏内に近づく
というイベントも開催されることになった。


そのために昨年案内してもらった僕が感想を書くことになった。
以下がその文章。

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8月。真夏。
朝、新幹線に乗って東京を離れた。


郡山からは車で東へ。海に向かう。
初めて線量計というものを持つ。
ふたつあってその違いがよくわからない。
表示される数値が高いのか低いのかもよくわからない。
それは目の前の地形や建物に関係なく、上がり下がりする。
放射性物質が溜まっているとかで目には見えない高低差がある。
福島にはもうひとつの地図があるんだな、と思う。


最初に着いた場所は海水浴場で、親子連れがちらほらと車で来ていた。
足を浸して遊んでいる人たちも中にはいた。
閑散としている以外には何の変哲もない夏の風景だった。


北へと海沿いに走っていく。
次の海水浴場は「遊泳禁止」と大きく書かれ、
真っ黒な土嚢がずっと向こうまで続いていた。
いつ置かれたものなのか。土嚢の隙間からは雑草が伸びていた。
ここはサーファーたちのメッカのようで、駐車場に車がたくさん停まっている。
ウェットスーツを着てサーフボードを抱えた若者たちが
砂浜を歩いて海の中に入っていく。
波を捉えてボードに乗ろうとする。
彼らは、彼女たちは、怖くないのだろうか?
刹那的に今を生きているのだろうか?
それとも、ここはもはや危険な場所ではなくなったのだろうか?


さらに北へと進んでいく。
休憩のためコンビニに入ると
「ここが最後のコンビニです」「これ以上先にはありません」
と大きく書かれている。
少し先に火力発電所なのか、白い煙突がまっすぐに伸びているのが見えた。
車に乗って走り出すと確かに開いているコンビニがなくなった。
というか住んでいる人がいなくなった。
無人の町。
家屋は無傷で残って、崩れた家はひとつもないのに、そこに住む人はいない。
原発関係の作業に向かう人たちのバスだけが行き交う。


とある住宅地の中の公園では、盆踊り会場だったのか櫓がポツンと残されていた。
その四隅からケーブルが伸びていてピンクの提燈が風に揺れていた。
亡くなられた方たちの魂が、行き場所がなく無言で揺れているような気がした。


かつてのスポーツ公園だった高台に上ると遊具が全て手つかずで残されていた。
見下ろすとかつて田んぼや畑だったところが土嚢で埋め尽くされていた。
行き場のなくなった除染後の土か。
同じく高台に立っていた男性は子どもの頃この近くに暮らしていたという。
年老いて故郷に戻ってきて家を建てたところに震災が発生した。
声が怒りで震えている。しかし、誰に対して何を怒っていいのかわからない。


無人の町が続く。
原発から10kmの境目に近い富岡町は壊滅的な状態のまま取り残されていた。
家々はあちこち傾いているものの遠くから見る分には穏やかな姿を保っていた。
しかし近づいて中を覗き込んでみるとどこも
泥の濁流とそれによってなぎ倒され流されたものが
そのまま固まって、どうにもならなくなっていた。
住んでいた人たちは津波にさらわれたか、
避難したまま二度と帰って来れなくなったか。


富岡町の駅は周囲を背の高い雑草で覆われ、孤絶していた。
線路も草の間に埋もれていた。
もはやここから先、どこに向かうこともできない。
行くことも帰ることもできない。
駅前のはずれに手作りの慰霊碑があって
どこからともなく現れた人たちが手を合わせていった。


日が暮れて郡山へと戻る。
線量計を見ると徐々に数値が下がっていくのがよくわかる。
だけどゼロにはならない。
駅前は賑わっている。
郡山の町はこの日週末、夏祭りが開催されるのだという。