死の物語性

David Bowie 死去のニュースの後、「★」(Black Star)のダウンロード数が
2700% 伸びたというニュースをどこかで見かけた。


死という物語性、ドラマ性が人々の興味を惹きつける。
物を売るならば性能・効果を直接に伝える時代から
イメージの時代を経て、物語・ストーリーの時代へ。


物語は多くの場合、思いがけない喪失とそこからの回復・再生という形を取る。
何も起きない物語もどこかで、時には語られたその外側で、それが起きている。
喪失の最たるものが、死。


「死んでしまった」
「死んでもう何年にもなる」
「今、ここで、死につつある」
「死ぬかもしれない」
「(予想外なことに)死ななかった」
「死にたくない」
「死を運命付けられた(予告された)」
「死に憧れる」


これらの状況にどう向かい合うか。
そこにストーリーとドラマ性が生まれる。


死んだ後、人はどうなるのか。
それは今も昔もわからない。
そしてそれは避けられることのできるならば避けたい、
恐ろしいものというのが常であった。
そこに想像力が働く。
死とその前後のプロセスに対して
それぞれの文化圏、地域と時代に応じた象徴となるものを見出すことになる。
死とは無であるとされるから、なおさらそこを意味やイメージで埋めやすい。


言い方を変えると。
受け手の方がモヤモヤと抱いている言葉にならないものを
物語として形を与えることでカタルシスを与える。
そんな作用が物語にある。
そのとき、死のもつ媒介としての力の強さたるや、ということ。


そしてそれは人間の心の中で
生を求めるエロスと死を求めるタナトスとに二分されて。
絡み合う中で、物語の語り手と受け手、
それぞれに抱える意味の渦に奥行きを与える。


きちんとした物語にはやはり、その二つがあるんですよね。