燐火

残業を終えて、二本乗り継いで帰ってくる。
妻は明日まで北海道に出張。蟹の写真が LINE に送られてきた。
改札を出たところで「岡村さん」と声を掛けられる。
振り向くと星野さんだった。
「ちょうどよかった。これから、どうですか?」
駅ビルの中はサイゼリヤとか杵屋とか。敷地内の別館に和民と大戸屋
外に出ると飲食店は皆無と言っていい。
新興住宅地。なんかの条例があるのか。商店街もない。
歩いているとたまにつぶれかけた中華や蕎麦屋、カラオケスナックが
一軒だけポツンと立っているのを見かける。
和民に入った。それほど混んでなかったから四人テーブルに二人で座って、
生中を頼んでお絞りで顔を拭いた。適当に枝豆や串盛り合わせを頼んだ。


星野さんは隣の家に住んでいる。
六年前、同じ時期にできた建売住宅を買った。
L字型に五軒、似たような造りの家が並んでいる。
三階建てで細長く、ベランダは東向き。
車を置くスペースは玄関前にあるが、屋根はない。
星野さんは昨年そこに屋根を設置した。
小学生に上がったという娘が一人いる。
奥さんはもしかしたら働かずに専業主婦なのかもしれない。
いつのまにか話すようになって、もう一軒近くの子沢山の家と仲良くなって、
年に一度夏前に近くの大きな公園のバーベキューガーデンで肉を焼くようになった。
今年が三回目。男たちにとっては楽しいひと時だが、
妻にとっては事前に手の込んだ料理を仕込んだり、
気を使うばかりで余り嬉しくはなさそうだった。


最初のうちはいつものように、当たり障りない話になった。
今年のペナントレースは広島が強いとか、
甲子園はあの高校が優勝するとは思ってもみなかったとか。
高校時代は野球部のレギュラーで夏の地区大会は準決勝まで進んだこと。
大学では体育会ではなく、いろいろあって途中から野球サークルだったこと。
今も時々休みの日は朝早く遠くに出かけて、草野球の試合に外野で。
人手が足りなくなったときに借りだされるといつだったか笑いながら語っていた。
あとのことは曖昧だ。
どういう業界に勤めているかは大体知っているが、ポジションはわからない。
朝の通勤ルートも途中までは一緒だが、山手線に乗り換えてからは別方向になる。
年齢は向こうがひとつかふたつ上だと思う。


三杯目を頼んだところでふと思い出し、
「そういえばさっき、ちょうどよかったって?」
「ええ、ああ…」
一瞬戸惑って、それからしばらく無言でいた。考えをまとめているような。
「怒らないでくださいよ。本当は言わなくてもよかったんですが、
 妻がどうしても伝えてくれと」
「はあ」
店員がジョッキを運んできた。僕は一口口をつけた。
「一ヶ月前のことなんです。夢の話で恐縮ですが…
 妻がこんな夢を見たと言うんです。
 外側のドアを開けて鍵を掛けようとしたら、誰かが、影のようなものがすれ違った。
 あれ、と思って振り向くと男はそのまま庭先を歩いていく。
 玄関の前に立つと、開けずにスーッと中に吸い込まれるように消えていった」
「幽霊? あ、いや、夢なんですよね」
「そうです。消えていく前に男は振り向いてこちらを見たというんですが、
 そこに首はなかった。だけど、顔というか口元があって、ニヤッと笑った」
「…夢、ですよね」


星野さんは「ふう」とため息をついて、店内のどこか向こうに目をやる。
何かを見るともなく見つめて、視線が戻ってくる。
「家はもちろん、自分たちの家。
 困ったことにそういう夢ほど鮮明なもんで。
 妻はその男が家の中にいる気がして、落ち着かない。
 ずっとそわそわして、イライラしている。
 毎晩、電気を消さずに寝ている。
 日中、何かと言うとメールや LINE や電話が来る。
 こちらもいらだってきて、先週、些細なことで喧嘩になって、
 それはすぐ収まったんだけど、今週になって娘を連れて実家に戻った」


星野さんはそこで一息つくとスマホを操作して「写真が…」と呟いた。
届いたジョッキに手をつけない。目の前で泡が乾いていく。
僕もビールが飲めなくなった。
怖いな、と思うと同時にこれが原因で別居が続いたら家はどうするんだろう?
ということを頭の片隅で考える。
売り払うんだろうか。ローンはあとどれぐらい残ってるんだろうか?


「本題はここから。いいですか。驚かないでください。
 妻が、先週こんなことを言ったんです。
 その後ずっと男の夢は見てなかったのに、また見るようになった。
 見た、ではなくて、見るようになった。三日続けて。
 男は二階のリビングの同じ場所に、窓際に、
 そこが暗がりのようになってずっと立ってるんだそうです。
 首がなくて、だけどそこに目があるのは感じられて、見てるんです。
 じーっと。それが、


 岡村さん、あなたの家なんです」


そうですか、と思わず口をついて出た。
…夢の話だろう。現実ではない。
だけど、だけど…。
こんなことを言って、聞いて、いったいなんになると言うのだろう。
少し腹立たしくもなった。共有することで負担を減らそうとしたのか。
本来、知らなくていいことだ。いや、知らなくてよかったのか。
実はあの家の土地にはなんか謂れがあった、とか。
調べてみた方がいいんじゃないか。


男が、今も、立っている。
こっちを見ている。
リビングに立ったらその視線を感じるかもしれない。
その家に今から一人で帰る。


「今週は一人なんですか?」
「ええ、一人です。僕は霊感とかそういうのはないから、
 何も感じないんですけどね。洗濯して干したり、布団を片付けたり」
そう言って苦々しそうに笑った。


僕はこの話、妻にすべきだろうか。
胸にしまっといた方がいいだろうか。


どちらともなく、「行きしょうか」ということになった。
星野さんが「私、出します」と言う。
伝票を奪うようにして僕がカードで支払った。
コンビニに寄ってから帰るというと、星野さんは一駅乗ってもう一軒飲むと。
誘われはしなかった。
コンビニの前で別れて中に入る。
しかし特に買いたいものはない。店内はやけに明るい。
ゆっくり一回りして店を出た。


駅から家まで歩いて十五分かかる。
妻はいつも長くて大変だという。
今日ばかりはその距離がありがたかった。
国道沿いのまっすぐな道が続いた。
右側に生垣、左側に街路樹。
電灯は背が高く照らす範囲が狭い。
あの家を売るとしたらいくらになるだろう、
ローンの残りは賄えるだろうか、ということを考えながら歩いた。