「ここが、宇宙の中心なのよ」と彼女は言った。
彼女の声の他に、波の音が聞こえてきた。
グラスの中のキャンドルだけが唯一の灯りで、
この地方原産の強くてエキゾチックな酒を僕らは飲んでいた。
「宇宙」とは大袈裟な、と僕は思った。
僕は全く興味がないが、彼女の方はスピリチュアルな物事に「多少」興味を持っている。
僕たちは旅を続けていた。
最初はそれぞれが一人旅をしていて、
途中で知り合ってからは一緒にこの国を回るようになった。
いったいなんのために旅をしているのか?
探しているものがあるとも言えるし、ないとも言える。
理由なんてないのかもしれない。
こういう話をしていくと結局「人間とは何か」「人生と何か」というジャングルに迷い込み、
ほとんどの場合夜を徹しての不毛な議論となってしまう。
だから僕はそういうことがとっくの昔にどうでもよくなっていた。
彼女もまたそうだった。
だから、気が合った。
僕らが旅に出るのに、理由なんて要らない。
それは何をするのであっても、同じこと。
どんな物事であれ、よほど切羽詰ってない限り、理由なんて要らない。
表向きはそんな姿勢だったけど、
観察していると彼女には探しているものがあった。
もっと正確に言うと、自分の探しているものがなんなのか分からなくて、
それを見つけようとしている、といったとこか。
事情は「多少」込み入っている。
「どこが世界の中心でどこが世界の果てなのか」見極める。
僕はそういうテーマを心にそっと抱えつつ旅に出たつもりだった。
答えはあっさりと見つかって、
世界中のどの地点も中心になりえて、果てにもなりえるということがわかった。
境界線はない。僕の中にあるのかというとそういうことでもない。
つまりは相対的なものの見方をしていくと全然キリがないってだけのこと。
ここは「ここ」であって、その他のどこでもない。絶対的なものだ。
山岳地帯を走る古びた列車に乗っているとき、
砂漠の周辺で強烈な太陽に焼かれているとき、
いや、東京のビル街の間を歩いているときであってもいい。
それはどこだって同じことだ。
例えば僕らは今、海辺に面したバルコニーのある安宿で
今週何回目かのセックスの後で、道端で買った怪しげな酒を飲んでいる。
彼女はふらっと立ち上がると外に出て、砂浜に向かって歩き出した。
そして振り向いて、僕に向かって大声で叫んだというわけだ。
「ここが、宇宙の中心なのよ!」
彼女は大きな声で笑った。そしてクルクルと回っているのが見えた。
真夜中。満月が空に浮かんでいる。
「おいでよ」と彼女は言う。「水がとっても冷たいから」
僕は彼女をつかまえに行く。
確かに波しぶきが冷たかった。
何の理由もなく、僕らは笑いあった。大声で笑った。
もう一度繰り返すけど、
どんな物事であれ、よほど切羽詰ってない限り、理由なんて要らない。
旅はもう終わりだ、と僕は思った。
彼女に言わなくちゃならない。
日本に帰ろうよ、と。
日本に戻ってこの続きができるかどうか試してみようよ、と。
僕には「実は探しているものがあった」ということがわかった。
そしてそれはここでは半分しか見つからないもので、
残りの半分はいわゆる日常生活ってやつの中でしか見つからない。
彼女と一緒にいたら見つかるのかと言ったらそれはわからない。
彼女もまた同じものを見つけたがってるのかと言ったらそれもわからない。
彼女は砂の上に身を投げ出すと、そのまま眠りだした。
僕もその横に並んだ。
星の数を数えようとした。ばかばかしくなって途中でやめた。
僕は耳を澄まして、波の音を聞いた。
答えは「永遠に続く」ってことがわかってるのに、
波の数を1つ、2つと数えた。