生活とか人生とかいうもの

18時を過ぎて休憩時間に入った。30分後には夜勤の連中にラインを交替する。
シャワー室に入って作業服を脱いだ。
サウナで3年上の先輩に会い、隣に座って世間話をする。
「今度の土曜野球出てくんないか?ライトだから立ってるだけでいいぞ」と誘われるが、
「自分、その日船橋の工場に応援勤務なんですよ」と答える。
「なんだ、偉いやつだなー」
「先輩は呼ばれないんですか?」
「家が遠いからな、俺は。まあ、オマエは若いんだからしっかり稼げよ」
「でも、手当てつかないんですよ。日勤しかもらえない」
先輩はわざとらしくため息をついて言う、「不況で会社がつぶれるよりはマシだよな」


夜組のシフトリーダーに引継ぎ報告をした後で、工場長に呼ばれる。
部屋の中に入ると色褪せた固いソファーを勧められる。「ま、座りたまえ」
工場長はペットボトルのウーロン茶をグラスに注ぐ。
オカムラ君、何年になるかね?」
「8年になります」
「ここの工場は?」
「3年目になります。その前は武蔵野工場にいました」
「独身だよな?」
「独身です」
「君の働き振りを見てみたんだが、なかなかよさそうじゃないか。
 どうだ、来年昇進試験を受けてみないか?」
工場長は、もう1度「どうだ?」と言う。
僕はくぐもった声で「・・・ありがとうございます」と答える。
シフトリーダーか。
早いやつは7年目で昇格する。僕は可もなく不可もないスピードだった。
部屋の隅にはゴルフバッグが立てかけてあって、
机の上には生まれたばかりの赤ん坊を抱いた夫婦の写真が飾られていた。
「がんばれば」僕はここに到達するのか。
生ぬるいウーロン茶を飲み干して僕は立ち上がり、深々とお辞儀をして部屋を出て行く。


工場を出る。既に暗くなっている。
いつものパチスロに寄っていこうかとも思うが、やめておく。金がない。
それに最近全然勝てない。動体視力ってやつが落ちてきて、目押しの精度が鈍ってきた。
一昨日深夜のテレビを見ていたら、プロが必勝法の解説をしていた。
あんなの見てしまったら、「僕には無理だ」と思ってしまう。
この世の中、何をするにも才能が必要だ。それに努力と根性だ。ばからしくなる。
駅前の定食屋で麻婆豆腐を食べて、ビールを飲む。餃子を追加する。
パリーグの中継をやっていた。
今年はロッテが強くて、ソフトバンクが後を追っていた。同率首位か。
たいしたもんだよな。僕が小さかった頃はロッテと南海が常に最下位を争っていた。
時代は変わっていく。
携帯を見る。彼女からメールが届いている。
絵文字ばかりで中身はなく、頭も悪い。
だけど僕もまた、絵文字ばかりで頭の悪いことを返信している。他に書くこともない。
2人の間では猫語で話すのが一応はやっていることになっていて、
何かにつけて「ニャー」だの「にゃー」だの書いている。
にゃーにゃーなにたべてるにゃー?
麻婆豆腐定食と餃子、と書きかけて全てクリアした。


アパートに戻ってくると、トランクスだけになってテレビをつけて
ロッテとソフトバンクの試合の続きを見ながら缶ビールを飲んだ。
飲み終えるとベッドに横になりながら試合を見た。8−3でロッテが勝っていた。
ふと思い立ち、起き上がり、テレビを消した。
新聞を手に取ってページをめくった。文章を読む気はしない。文字を探す。
新品の軍手を袋から取り出す。はさみで新聞のあちこちを切り抜く。
西友チラシの裏にこんな文章が出来上がる。
「娘 を 預 っ た 返 し て ほ し け れ ば 現 金 を 用 意 し ろ」
工場長の孫娘のことを僕は頭に思い浮かべた。
封筒を探しても見つからず、工場の名前入りの現金袋しか見つからなかった。
チラシを折り畳んで入れた。
もう1度取り出して眺めてみた。大きかったり小さかったりする切抜きの文字が
派手なチラシの文面に紛れ込んであんまり目立たなかった。
あほらしくなって破り捨てた。封筒も軍手も新聞も捨てた。
することもなくて、寝た。
明日は夜勤なのでとりあえず昼まで寝る。


携帯が鳴った。
時計を見たら午前2時。「うるせーなー」と思う。
着信音のオレンジレンジが陽気な夏向けの軽快な音楽を鳴らす。
彼女からで、出てみると「私、死ぬ」とか言い出している。
「なに?」
「聞いてんの!?わ、た、し、死ぬから」
寝ぼけた声で僕は、「なんで?」
そう、こういうことは3ヶ月に1度ぐらいで発生する。もう3ヶ月たったのか。
メールに返信しなかったからだろうか。麻婆豆腐定食と餃子だ「にゃー」と。
彼女は泣き出している。何を言っているのかさっぱりわからない。
「わかったわかった」と僕は言う。「今からそっち行くから」
うぜーと思う。気が重くなる。
車のキーを探す。冷蔵庫の上にあるはずが、見つからない。流しの下に落ちていた。


車を出して環七を北上する。
深夜営業のラーメン屋に人が並んでいて、「こんな時間にまで並ぶのかよ」と思う。
だけど僕もまたラーメンを食べたくなる。
寄りたくなるが諦める。食べてる間に携帯が鳴るだけだ。
彼女のアパートはいつものようにドアが開いていた。
留守にしない限り鍵をかけようとしない。
「不用心だ」といくら言っても改めようとしない。
スーパーのゴミ袋もまた、「いつか使う」と言い続けてたくさん丸まって散乱している。
僕が部屋の中に入って行くと彼女は泣いていて、なだめなりなんだりで大変だった。
浴槽に浸かって泣きながら剃刀を持っていた時に比べたら楽なもんだ。
(あの時は無我夢中になって諭したけど、
 後から思うに彼女の演技力というか「なりきる」力はたいしたもんだと感心させられた)
嫌悪感が9割と、それでもまだ「いとおしい」と思う気持ちがまだどこかに1割。
結局はいつものように彼女を抱くことになった。午前5時。
ゴムがなかったので中出しした。そのまま2回。
ああ、これで僕も1年後には1児の父だ。確率によっては。
もしかしたら半年後には慌てて結婚式を挙げているかもしれない。


夜明けだった。
アパートの外に出た。なんとはなしに2人で近くの川原に出た。
「気分悪い。会社休む」と彼女は言った。
なんかよくわからないけど、その肩を抱き寄せた。
そうすることしかできなかったから。
僕の右横のスペースが1人分、ぽっかりと空いていたから。
夜明けのこの時間に眺める「世界」は無駄に広々としている。いつもそう思う。
アパートまで彼女を送って行くと、車に乗って自分のアパートまで戻った。
ひどい頭痛がした。ベッドに横になった。
泥のように眠った。
目覚ましが鳴って、工場に出かける時間だった。
彼女から携帯にメールが来ていた。
「何してるニャ―」と書いてあったので
「寝てたニャ―」と僕は返した。