「『悪なき大地』への途上にて」

12/14(日)に行われた編集学校のオフ会。
待ち合わせ場所が最近できた西新宿のブックファーストだったので
早めに着いてどんなもんだろと眺めて回った。
その時にカルチュラルスタディーズの棚で見つける。


何よりも「『悪なき大地』への途上にて」というタイトルがいい。
表紙が作者ベアトリス・パラシオスが銃を肩に掛け、凛とした佇まいで立っている写真。
帯にはこうあった。
「ウカマウ映画集団(ボリビア)のプロデューサーの社会的ルポルタージュ
 変化しつつある社会の断面を鋭くカットして、
 まるで文学作品のように差し出された18の掌編」
一目ぼれして、迷わず買った。
http://www.amazon.co.jp/dp/477380808X/


それまで全く知らなかった未知の領域。
そのイントロダクションとなる本に出会うということ。
探していたら見つかるものではなく、ある日突然、思いがけなく眼に飛び込んでくる。
その瞬間、読まずにはいられなくなる。
年に3冊あるかどうか。
その1冊に今年も出会えたのだから、本読みとして自分は幸福なのだとその時は思った。


僕らは、ボリビアのことを知らない。
日々暮らしていて話題にすることは皆無。
よほどの達人じゃない限り、海外旅行先として選ばれることもない。
南米大陸の真ん中にあって、海に接していない高山の国であること。
その首都はラパスであること。
普通の人が覚えていることってだいたいこれぐらいではないか。
晩年のチェ・ゲバラキューバの次に革命に身を投じて殺害された場所として
記憶している人もいるかもしれない。
とにかく、僕らが毎日の生活の中で思い浮かべる外国、ニュースで聞く外国って
ほんの一握りに過ぎなくて、20個か30個が精々だろう。
「その他大勢」の国の名前は、人によっては耳目にすることもないままとなってしまう。
そしてその「その他大勢」の国に生まれ育った貧しい子供は
日本という国のことを知らないままに幼くして死んでしまうかもしれないのだ。


軍事政権が圧制を続ける80年代のボリビア
インディオインディオだというだけで蔑まれ、虐げられる。
自由と平等を求めて、映画プロデューサーである著者ベアトリス・パラシオス
監督のホルヘ・サンヒネスと共にボリビアの「今」を訴える作品を生み出していった。
彼女の取り上げる題材は家のない子供たちや、望まずして売春婦となった女性たち。
その現状について、その未来について、明るいことは何ひとつとして描かれない。
命がけで行うデモが空しくも蹴散らされていく。


地球の裏側で生まれ育った僕はそんなこと、全く知らなかった。
たまに「世界まるごとHOWマッチ」で取り上げられる南米の国、
ぐらいにしか認識していなかったと思う。


ゲバラだけが英雄であったわけではなく。
そこには多くの、自由を求めて戦った人たちがいた。
生き延びるのに精一杯で戦うことが叶わぬ人たちがもっともっと大勢いたはずだ。
2000年代の終わりに生きる僕がそのことにわずかながらも思いを馳せる。
そこにはいったいどんな意味があるのか?
死んでいった人たちが少しでも報われるのだろうか?


この本がささやかながらも光を照らす場所がこの世界のどこかにあって、
おぼろげながらも僕はその光景を垣間見た。
2009年のボリビアはどんな国なのか。
ベアトリス・パラシオスが望んでいた方向に進んでいったのだろうか?
結局のところ、僕は、僕らは、ボリビアのことを知らないまま。
それでも日々は続いていって、この星は何事もなかったかのように回り続ける。

『悪なき大地』への途上にて

『悪なき大地』への途上にて