『夜と霧』

今週前半はヴィクトール・フランクル『夜と霧』を読んでいた。
有名な本であって、いつでも読めると思っているうちに
学生時代から十数年が経過していた。


ウィーンの心理学者であった著者が
アウシュビッツやその他の収容所で体験したことを語る。
物語仕立てではなく、淡々と出来事を並べていく。
そしてそれが臨床心理学的にどういう意味を持つのか考察を加える。
150ページほどの短い本。会社の行き帰りに2日半で読み終えた。


誰かを、何かを、糾弾するのではなく。
哀れみを誘うのではなく。
ただ、そこを生き残った人だけが持つ言葉の重みがある。
これは想像力では書けない。


狭いベッドの中に何人も押し込められて毛布だけ。
着替えも入浴もなく、食事はわずかばかりのパンと薄いスープのみ。
強制労働に向かうため、雪の中をボロ靴を履いて歩く。
寒さをしのぐものはない。立ち止まろうものなら見張りの兵に殴られる。
理不尽な暴力はやがて無気力無関心を生む。
今、思い返して僕が書いてみても漠然としたものにしかならない。
僕が読んだのは、この程度のものではなかった。


骨と皮になり発疹チフスで死ぬか、目をつけられて「かまど」で焼かれるか。
そのような日々であっても、それが何年と続いても、
人間性を失わなかった人たちがいる。
そのための内的自由と、計り知れない勇気と。
しかしその崇高さはアウシュビッツという特異な状況だからこそ得られたものではなく
著者も言うように、僕らの日々の生活にあっても本来は見つかるはずのものなのだ。
目を塞いでいるのは僕ら自身だ。


そう思いながらもいつも通り会社と往復して当たり障りなく仕事をして
コレステロールの高い食事をして、テレビやネットの向こう側のことをぼんやりと眺め、
身の回りの半径1mのことだけを気にしながら日々をやり過ごす。
あれはもはや歴史的出来事なのだと無意識のうちに遠ざけ、
うっすらとした無気力無関心の中に生きている。
それでいいのかと問いかけることもいつか忘れてしまう。
今、生きていることの意味を忘れてしまう。
僕らもまた一人一人、夜の霧の中へと消えていく。