物語・言語・風景

昨日のイベントで感じたこと。
音楽であれ、小説であれ、その作品を通して
人はそこに風景を見出したいのだと思う。


そのとき思い描く風景はそれぞれ異なる。
だけどそれが共有できたり、共通のものになるといい。


風景が思い描かれるというとき、人は記憶の中を辿ってゆく。
だからその音楽や文学は初めてなのに懐かしいということになる。


この風景が物語を、ストーリーを生む。
その断片が全体像を孕み、全体像が無数の断片を孕むというような。
その作品自身のストーリーと、受け手の中のストーリーと。
折り重なって、さらに別のものへと紡がれていく。
物語が「意味」を持つ。
(同様に、ジュリア・クリステヴァが言うように
 この世界のあらゆるテクストは
 全てひとつのテクストへと収斂されていく)


物語が物語として成り立つには
その原段階として風景のようなものが必要なのではないか。
もっと単純に言うならばイメージということなんだけど、
抽象的な「イメージ」よりも、その人なりの意味を付与した
具体的な「風景」の方がしっくりくる。
それはその人がこの世界をどんなふうに見ているか、
見たことがあるか、
どんな記憶として保持しているかということでもある。


言い方を変えると、
物語の表層部分は文字情報として構成される。
その深層部分が風景というか。
(そしてそれら全てをひっくるめたのが、言語)


一方で、風景を一切持たない音楽や小説もこの世にはあるのだろう。
持ってはいるが共有できない、閉ざされたものもあるだろう。
それは音楽や小説と呼んでいいのか。
いや、実際にはそちらの方がはるかに多いのかもしれない。