模倣というもの

昨日の感門之盟の続き。
本編のタイトルが「ミメシス イシス」ということもあって
校長校話ではミメシス、模倣がテーマとなった。


人間は本質的に模倣を好む生き物である。
相当な文化的感染力を持つ。
家族で電話の受け答えが似てくるとか、ミクロな事例を挙げるといくらでも出てくる。
そもそも学ぶことは真似ることから始まる。


しかし、権力者の持つ権威の根拠となるものを誰もが持つようになっては困る。
だから時の権力者は模倣を抑圧してきた。
魔術・魔法が科学技術の時代となって禁止されたのもそのひとつ。
社会の価値観をひっくり返しかねない。
現代でもデザインをパクって知的財産権がどうとか、
模倣については悩ましいことばかり。


模倣することを禁止され、あなたたちは私たちと違うとレッテルを貼られた
少数の者たちはこれまでの歴史では迫害されてきた。
あなたたちと何一つとして分かち合うつもりはないのだと。
逆に言うとわたしたちとあなたたちは
言葉遣いや常識、慣習、音楽の好み、料理の様式、歴史認識など
多くを共にしてよいとするならば、それは友好的な関係にあるということ。
模倣による類似・共有をコミュニティ存亡の拠り所としている。


ここでふとわからなくなってくる。
一方で人は限定500部とか限定100枚といったものに弱い。
これってどういうことなのか。
そこでは明らかに、人とは違うということを求めている。


コミュニティの内にあっては模倣をベースに関係性を強めつつ、
その中でも人は序列を求める生き物ということか。
何もかもを均質にするつもりはない。
レアなものをもつことで自分を特徴づけたい。権威づけたい。


時間が余り、質問があればとなったので挙手して聞いてみると
生物学的に言えば、人であろうと猫であろうと
新しいものを避ける性質と受け入れる性質と
相反するものが同居しているものなのだと。
別な学問ジャンルをぶつけて考える。なるほどなあと思う。


そんな今日も通りがかった家の前でカレーの匂いがしたら自分も作りたくなるし、
自転車屋に行けばあのデザインいいな、いつか買いたいなとなる。
僕「も」私「も」というこの「も」の部分。
考え出すと案外奥が深い。