「世界の中心で、愛をさけぶ」

世界の中心で、愛をさけぶ
小説を読んだことも無ければ映画を見たことも無くましてドラマも見たことの無いのだが、
前から何かと気になっていたので思ったことをいくつか書きたい。


やはりなんと言ってもまずはこのタイトル。
SFファンからすればこれってハーラン・エリスンの短編集
世界の中心で愛を叫んだけもの」のパクリなんじゃないかって感じがして非常に居心地が悪いってこと。
(原題は「The Beast That Shouted Love At the Heart of the World」なので直訳ですね)
インターネットで検索してみたら同じようなことを考えている人がちらほらといますね。
でも、そういう話をいくつか拾い読みしてみたらどうも、
ハーラン・エリソンのこのタイトルが「エヴァンゲリオン」の最終話のタイトルに転用され、
それが「世界の中心で、愛をさけぶ」へと転用されたという経緯があるらしい。
真偽の程は分からないけれども、なんとなく信憑性がある。


ハーラン・エリソンは60年代にデビューしたアメリカの作家で、
暴力的で退廃的、荒廃した世界観ばかりを好んで書くことにより一躍センセーショナルな存在となる。
時代はSF界においてもニューウェーブが提唱されていた頃。
お子様向け読み物の1ジャンルとしての側面がどうしてもぬぐえなかったSFというものを
もっと異質なものとして進化させようと、オピニオンリーダー的に活動していた。
後年は「スタートレック」のテレビシリーズの脚本を手がけていたりする。
※もちろん彼は全てのシリーズを書いたわけではなく、他にも何人か有名なSF作家が参加している。
 今思いつく限りではヴォンダ・N・マッキンタイアとか。


日本ではまとまった作品集としては「世界の中心で愛を叫んだけもの」しか出ていないので残念だ。
困ったことにこの作品集は表題作以外はパッとしないものばかりで、あんまりお薦めできない。
現在入手可能なものとしては河出文庫から出た「20世紀SF」のシリーズの60年代編に
代表作「”悔い改めよ、ハーレクィン!”とチクタクマンはいった」が入ってるぐらいか。
後は古本屋で何十年も前のアンソロジーを探すしかない。
でも見つけて読んでみるとどれも面白い。
アンソロジーにしか収録されなかったってのはもったいない話だ。
日本やアメリカでこの時代に編まれたアンソロジーにはたいがいこの人の作品が入っている。
絶大な人気を誇り、評価が高かったということか。
なお、ハーラン・エリソンの書く作品のタイトルは
「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」というようにその気にさせる秀逸なものが多い。
これも僕はハヤカワ文庫のすごい昔の傑作選で見つけて読んだ。


この辺の話をすると長くなるんで、次に。


あと、あれだよな。
最初僕がこの本のことを知ったのはなんかの雑誌か新聞で記事で
出版当初は全然注目されてなかったのに
とある本屋の店員がお薦めの本として取り上げたのがきっかけでジワジワと売れ出したという話から。
派手に出版キャンペーンとかしなくても、
書店の店員の地味だけど良質な熱意がベストセラーを生むこともある。
出版社がとある本屋でだけかなり売れていることに気付いて、
「これだ!」とそこから先は出版社側で流れを作り出したんだろうけど。


結果として純文学で200万部売るという「ノルウェイの森」以来のベストセラーに。
ここまではいんだけど、そこから先のアレヨアレヨという間の展開がなんだかどうも。
映画になりドラマになり、「セカチュー」と略されるようになり、
なーんか頭悪いというか、ものすごく画一的というか。
(念のため断っておくけど、内容が、ではなくて展開の仕方が)


映画版は予告編さえ見れば全て事足りる、と僕の周りで何人かの人が言っていたのだが
実際のところはどうなのだろう?
涙もろい人には泣けるものなのだろうか?
純愛というものを心の奥でかなり信じていて、そこへと至る過程を常日頃探し求めている、
そんな若い女の子たちにしか感動できないものなのだろうか?


最後に、もう1度タイトルの話。
(読んでないし見てもいないから結局ここしか語れない)
世界の中心で、愛をさけぶ」ってやっぱなんだかなーと思わずにはいられない。
自分が世界の中心にいるんだから物語的には
その思いは相手に伝わるか、障壁を乗り越えてやがて伝わるかどっちかしかありえない。
あるいはちっとも伝わらなくて悲劇のヒロインとなるか。
そこでもやはり自分というものが中心となる。
(そういう部分が、自己というものが確立しきってない若い子にとって
 すんなりと受け入れやすくなるための下地となるのだろう)


僕的には「世界の果てで、愛をさけぶ」だったら手に取る気になった。
どこにいたところで自分にはこの世界に居場所が無い、相手にも居場所が無い。
そんな状況でいかにして愛を伝えるか。
どこにいようがそこは世界の果てだ。


自己を確立した途端、この世界に自分の居場所が無いことに気付く。
大人になるってそういうことじゃないか。
それまで自分を包み込んでいた世界がどんなものか分かった途端、幻想が打ち砕かれ、
寄る辺ない気持ちで日々過ごさざるを得ないから、人は他人を求めるのではないか。


この世界を形作っている様々な次元の様々な物事。
それが重層的に積み重なっている中に自分という存在がマッピングできたとき、
あるいはマッピングできないと分かったとき、
人はいかに自分が無力な小さいものか知ることになる。


そんなとき愛はいかにあるべきか。
そういうところを是非とも語ってほしいものです。