阪神・淡路大震災から11年

朝早く起きてテレビをつけたら、NHKのニュースでは
阪神・淡路大震災から11年」というタイトルが映っていて、
神戸市中央区からの中継となった。
竹の筒に入れられた無数の蝋燭が静かに灯され、並べられていた。
大勢の人々が無言で集まっている。
その向こうのビルでは部屋の明かりを使って「1.17」と描かれていた。
5時46分になって黙祷が始まる。
1分間、黙祷が続いた。
その後、坂本九の「上を向いて歩こう」が歌われた。

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アメリカにとって「911」という日付に特別な意味が与えられたのなら、
日本では「117」と言えるかもしれない。
その出来事がもたらしたインパクト、直接的な・間接的な被害の大きさ、教訓、傷跡。


この年はその後2ヶ月してオウム真理教地下鉄サリン事件を巻き起こす。
他の人もそうかもしれないが、僕はどうしてもこの2つをセットとして考えてしまう。
阪神・淡路大震災に直面された方からすれば一緒にしないでほしいと思うかもしれない。
でも、「日々の暮らしは安全が保障されていないのだ、
それはちょとしたきっかけでもろくも崩れ去ってしまう」
という危機意識をこの国の人に与えたという意味ではどちらも同じぐらいの重さを持つ。


そして僕は当時この2つの出来事に何の関係もなく、
テレビの向こうのニュースとして眺めていた。僕は20歳だった。


阪神・淡路大震災の朝のことは今でもよく覚えている。
僕らは寮でいつものごとく朝まで麻雀を打って、
徹夜明け、食堂でテレビを見ながら
寮食のうどんかあるいは時間が早かったので自販機のカップラーメンを食べていたと思う。
ニュースは「神戸・大阪に地震がありました」ぐらいの淡々としたもので
僕らは「ふーん」って感じだった。
地震なんてこの国で暮らしていて珍しくもなんともない。
僕だって小さいときに日本海中部地震を体験している。
今思うと不謹慎だよな。その後死者の概算が画面上で
100人・1000人という単位で分刻みのごとく増え続けていって
余りのことに「すげー・・・」なんて口走ってしまった。


そうだ、僕らは数日前の成人式にも出ることがなく、寮で麻雀を打っていた。
阪神・淡路大震災の後も何事もなかったかのように、
寝て起きてまた麻雀を打っていたのではないか。
そして地下鉄サリン事件だ。
僕らにしてみれば、2年から3年に上がる時期
(僕らの大学では唯一、進級できるかどうかの判定がある時期)であって、
それまで住んでいた寮は1・2年生用だったので
3・4年生用の寮に引っ越すだとかアパートを借りるだとかでそれなりに忙しく、
ゼミは何を取ればいいだろうか、どれが楽だろうか
(人によってはどれが有意義だろうか)ってのが最大の関心事だった。
そしてそれまでの寮生活を名残惜しむかのように
毎晩のように盛大に部屋で飲んでは暴れていた。
安い焼酎を瓶から直接飲んでベランダから民家に向かってロケット花火飛ばすとかさ。
どうしようもないよな。
でも、そういうものなんだよな。


歴史的な事件に関して、そのときどこでどうしていましたか?と聞かれたとき、
その周辺にいた人じゃなければいつも通りの日常生活を送っている確率の方が断然高いわけで。
そしてそれがものすごくしょうもないことをしていたとしても今更取り返しがつかないし、
取り返しがついたところで何がどうなるわけでもない。
自分という人間がまだ生きていることを感謝「してみる」だけか。
その場限りで、すぐに忘れてしまうだけのつたない感謝を、心の中で。


天変地異かテロ行為か。
僕らはいつ死んでもおかしくはない世の中に暮らしていることを知らされた。
だけどそのことは普段、忘れてしまおうとしている。