夏の屍骸

この季節、路上にたくさんの虫の屍骸を見つける。
蝉に限らない。あちこちに転がっている。
蝉は地上に出てたった一週間だけ生きて、死ぬ。
それは彼らにとって長いのか、短いのか。
今もこの部屋の向こうで蝉たちが声の限りに鳴いている。
煩いとは言えない。
蝉が鳴くのを終えたとき、そのことに気付いたとき、
ほんの少し寂しい気持ちになる。
そして季節はずれに一匹だけ鳴いているのを聞いたとき、
ほんの少し嬉しくなる。


屍骸に蟻が群がって、どこかに運ぼうとしているのもよく見かける。
アスファルトの上、いったいどこに運ぼうというのか。
運ばれる屍骸と運ばれない屍骸とがある。
その違いはどこにあるのか。
選んだり選ばれたりということがあるのか。
この都会の雑踏の中で選ばれなかった屍骸はどこに消えるのだろう。
そのまま朽ち果てて、塵となるのか。
いや、踏まれて粉々になったり、誰かが片付けるのか。


夏に耐えられなかった野良猫や野良犬の屍骸はどうなるのか。
保健所に連絡して人知れず運ばれていくのだろう。
そして処理される。
真夏や真冬。路上に暮らす人々の屍骸もまた。
何も残らず全てが処分される。
その人が生きたという痕跡は消えてなくなる。
覚えておこうという人もいない。


この地上はたくさんの屍骸に満ちているのだ、ということを考える。
日本という国の外に出て、地球上のあらゆる国のことを思うならば。
野晒しにされた屍骸ばかり。
風に吹かれて、いつか消えていく。
火葬も土葬も水葬も、そこには実は大きな差がないと気付く。