石牟礼道子『苦海浄土』

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)


ふとしたきっかけで石牟礼道子苦海浄土』を読んだ。
読んでしまったら引き返せなくなる本というものがある。
この世界はこういう場所なのだと告げる本。
見せたくないものを見せないようにしている社会にあって、
僕らは見たくないものを見ないようにして生きている。
その重さに気づかせる本。
魂を、揺さぶる本。


恥ずかしながら、40年近くこの国で生きてきて
石牟礼道子という名前はどこかで聞いたことがあるという程度だった。
なんらかの抵抗運動に関わっている人という漠然とした認識。
水俣病との関連は知らなかった、恐らく目にはしても素通りしていた。
中学校の社会の時間にイタイイタイ病四日市喘息と共に
「公害」として習ってそれっきり。
記憶の片隅で埃をかぶらせるままにしていた。
工場排水に含まれていた水銀により
沿岸地域の人々の四肢が麻痺状態になった。
当時、そういうことを「学んだ」。


それは貧しき漁村の者たち、見捨てられた者たち、
目の前の海で取れた魚を食べるより他なかった者たちの間で発生したものだった。
漁師たちは海に出ることができなくなって職を失った。
彼らの獲った魚は買い手がつかなくなったのだ。
そんな中で家族の大半が冒され、肩寄せ合って面倒を見なければならなくなった。
これ以上支えられぬと家族にも見捨てられる者もいた。
意識を持ちひきつけの起こる体を引きずって歩くものもいれば、
小さな頃から意識のあるのかどうかも分からず寝たきりの子どももいた。


石牟礼道子は詩を書くことが好きだった、一介の主婦だった。水俣に住んでいた。
それが病に侵された人々と日々接していくうちに
身体を突き動かす言葉が奔流となって止まらなくなったのだろう、
祈りであり飢餓であるような荒々しい記録が生まれた。
切羽詰っていながらもそれは無闇に企業や政府を告発するのではなく、
日本がまだ名もなき海と山であった頃の太古の神話を腹の底に抱えながら、
はるか彼方の浄土を見据えながら書かれていた。


今日の午後、ユージン・スミスが撮影した水俣の写真集を図書館から借りてきた。
有名な、病に侵されて棒のように硬直した子どもと
一緒になって裸で風呂に入る母親の写真があった。
ユージン・スミスは妻と共に3年間水俣に住んで写真を撮ったのだという。
後に彼はありのままに撮影したのではなく、
美しい写真となるようにアングルやポーズを検討した作為的な写真だとされたが、
それがなんだというのかとねじ伏せるぐらい、恐ろしくて悲しいものだった。
ヘドロの海。着の身着のままで陳情する人々。かさかさになった脳髄。


彼らはその後どうなったのであろうか。
見捨てられた片隅でまだ生きている人たちもいるのだろう。


先日『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』を読んでいたら
こんな一節があった。引用します。
水俣市は1993年にすでに資料館を設置していたが、
 国はこれまで患者救済と社会啓発に冷淡であったことを反省し、
 2001年に水俣病情報センターを設けた。
 現在の水俣は汚染から回復し、
 先進的なエコタウンとして評価されている」


実際のところはどうなのか。傷跡は癒えたというのか。
苦海浄土』を読むかぎり、
人類の過ちや愚かさはそんな単純なものではないはずだ。