風をあつめて2

僕は女の子に近付いて、しゃがんで話し掛けた。
「子供と話す時は子供の視線に合わせて」という格言を思い出す。
「君の名前は?」
何も言わない。こういうとき「君」なんて使っちゃいけないのだろうか?


「知らない人と話すのは嫌?」
相変わらず女の子はじっとしている。
ちらっと横を向いて空中を何か虫のようなものが飛んでいるのを見た。
質問が難しかっただろうか。そんなことないよな。
いくら低学年とはいえ小学生なわけだし。
でも「知らない人」というのは抽象的な度合いの高い概念であって。
あーこんなふうにウダウダと考え出すのは大学院生の悪い癖だ。
しゃがんでるのも疲れてくるし、話を切り上げたくなる。


「僕の名前はトヨヒコ。トヨヒコお兄さんと呼んでくれればいい」
「・・・変な名前」
初めて口をきく。変と言われるのは心外だが、進展があったことは嬉しい。
この勢いでモノゴト進めていかなくては。
「ねえ、どこ行きたい?」
「・・・おうちの中がいい」
僕はしゃがんだままぎこちなく足を動かして振り返り、教授の家を見る。
そうだよなあ。家の中にずっといてこの子にはテレビを見せて
その間僕は本でも読んでればいい。その方が楽だ。


と、思った瞬間玄関が開いて教授夫婦が出て来る。
教授は「お、まだいたか」と言いながらにこやかに手を振りつつ車庫に消えていく。
奥さんが鍵をかける。カバンの中に鍵をしまいながら僕らに近付く。
「それでは、よろしくお願いします。
 まあ、ドタバタしてしまいまして。急がないと遅刻しそうなんですよ」


シャッターを開ける音がして、その後ドタン・バタンと騒がしく続く。
車が道路ににゅっと顔を突き出す。
助手席の窓がスーッと開いて教授が、僕に向かって大声で叫ぶ。
オカムラ君、悪いけどシャッター閉じといてくれないかな!」
窓がしまる。運転席には奥さん。教授は免許を持っていない。
僕は催眠術にかかったかのようにスクッと立ち上がり車庫の入り口へと向かう。
シャッターを下ろす。適度に錆付いていて力が要る。
「じゃあよろしく頼むよー」
そんな声がどこからか聞こえてきていつのまにか車は走り去っている。
ふと我に返って僕は「取り残された」と思う。
僕はゆっくりと歩いて女の子のところへ。
相変わらずポツンと立っている。


話し掛ける。
「さて、どうしようか」
めんどくさいんでもうしゃがんだりはしない。
女の子は麦藁帽子をかぶった頭をわずかばかりそらして、僕を見上げる。
「どこに行きたい?どこか行きたい場所はある?」
ユーエンチ。と女の子は言う。
ユーエンチ?と僕はアクセントもそっくり鸚鵡返しに答える。
コクリと頷く。「行きたい」


しまったと思う。
こんなことになるのなら教授から「先立つもの」をそれとなく請求しておけばよかった。
バイト代の振込みが3日後に控えている今、
読売ランドだろうと豊島園だろうと1人と半分のフリーパスを買うのはかなりの痛手。
花やしきは?子供には面白いのだろうか。
(あれってノスタルジアに駆られた大人たちが行く場所だよな)
デパートの屋上のゲームセンターではダメだろうか?
お金を入れると乗り物がゴトゴトうごくやつ。
でもそんな年じゃないだろうしなあ。


「遊園地では何に乗りたいの?」
「ジェットコースター」


あれって年齢で何歳以上ってのがあったような。それ以前に身長の制限あるよな。
僕はまたしゃがみこんで、目線を下げてから言う。ゆっくりと。
「君はまだ背が低いから乗せてくれないよ」
女の子の顔が曇りだす。今にも泣きそうになる。
焦りだした僕はつい、「僕だってどうしてあげることもできないんだよ」と言ってしまう。
これでは話がこじれるだけだ。


僕は立ち上がり女の子の左手からスケッチブックを取って、その手を握る。
「とりあえず行こっか、どこかへ」
手を引っ張って歩き出すとありがたいことに女の子が黙ってついてくる。
依怙地になって駄々をこねたりしない。
家の敷地を出て、道路へ。


手を離すと何事もうまくいかなくなりそうだったから、
片側に重心の寄った変な歩き方になるんだけどそのまま歩き続ける。
女の子のペースに合わせるためにゆっくり、ゆっくりと。
まだ5月だというのに今日は夏のような暑さで、
強い日差しがサンサンと降りかかってきた。


(続く)