青森について、もう1つ別なことも考えた。自分の事。
僕という人間の人格形成においてやはり小・中・高と青森で育ったのは大きく、
これまでだけではなく、これから先の人生に対しても強く影響を与え続けるのではないか。
東京で育っていたなら、僕はもっと普通の人になっていたのではないか。
僕が文学、映画、音楽に強く惹かれたのは、
吹雪の中、何もすることのない冬休みの午後なんてのがあったからこそ?
ふとそんなふうに思った。
小学生だったときには外で雪で遊んでいたらよかったけど、
中学生ともなるとそうもいかない。
小説を読む以外になかった。ビートルズを聴く以外になかった。
東京じゃなきゃ見ることのできない映画について、思いを馳せた。
東京に育っていたら。いや、仙台や福岡でもそうだろう。
青森にいたら手に入らないものは多くて、
それがちょっと頑張れば案外見聞きできたりして。
意外と早く飽きていたかもしれない・・・
憧れがあったからこそ、思いは強くなる。
そして周りは深い雪の中。閉じ込められてどこに行けない。
比ゆ的に、物理的に。
文学、映画、音楽。
そしてその内容といえば、孤独で寂しいものとなる。
原風景はやはり、雪の中。真っ白な雪原。壊れかけた小屋。
シンシンと降り積もる雪。何の物音もしない。
想像の中だけの風景かもしれなくて、あるいは小さいときに見た写真か。
その景色は目の前に広がっている。
だけど僕はその中に入り込めない。
ただ、立ち尽くしている。
全てが真っ白。
僕はその雪の中に吸い込まれて、消えていくことを望んでいる・・・
暗いよね。
僕はこれから先も決して明るくはならないだろう。
会社ではしょうもないことを言って周りを笑わせてるとしても、
素の自分はポツンと1人きりで暗いまま。
これって東京で育っていたらどうだったのだろうと考えた。
結局持って生まれた性質は変わらないのか。
いや、もっと無味乾燥な人間だったのではないか。
青森という風土が僕という人間を良くも悪くも
こんなふうに磨き上げてしまったのではないか。
30過ぎた今も半年に1回は青森に戻っているのは
僕が「つながり」を求めているからではないか?
今回の帰省でそんなふうに思った。
そう、確かに僕は高校時代、出て行きたくて青森を出た。
だけど、捨て切れなかった。
東京にいたら少しずつ自分というものを見失うかもしれない。
そんな思いが、どこかにあった。
帰る場所がそこにあるという感覚を確かめずにはいられない、
そんな思いもまた、あったのかもしれない。
かと言って青森に住み着けばいいのではなく。
どこか屈折したところを抱えたままでないと、バランスが取れない。