死を、目の前にして

飲んでいて、こんな話を聞く。


原子力発電所の奥の奥、すごい深いところの溶接をするって仕事があって。
 建設中じゃなくて動いてるときに。
 やってることは簡単。ただの溶接。でも、ものすごく放射能を浴びる。
 分厚いの、一応着てるんだけど。

 
 それ専門にやってる人がいて。外国人なんだけど。
 全世界の発電所に呼ばれてる。
 もらうお金はもちろんとんでもない額で、パーッと使っちゃう」


僕がドキュメンタリー映画を撮っていたり、ルポルタージュを書いていたら、
この人に会ってみたい。話を聞いてみたい。


生きるってどういうことなのか。
金を稼ぐってどういうことなのか。
その、稼いだ金を使うときの気分はどんなものなのか。


放射能を防ぐ分厚い防護服を着ていて十分な安全性が保たれるのならば、
そんな高額の報酬を払う必要はない。
それを払っているのは
実際には「どんな影響があるかわからない」という安全策なのか、
それとも、人として根源的な部分での盲目的な恐れなのか。


そういう人間の心理を逆手にとって、生きている人がいる。
きっと、凡人には計り知れない孤高の感覚を持っているのだと思う。
何かが麻痺してるのだとしても、とてつもない麻痺の仕方だ。


人は死ぬ。誰もが死ぬ。
その理由は千差万別だけれども、何かが積み重なって死に至るのならば
それは放射能だけとは限らない。そんなの、いくらでもある。


「ああん?金?飲んで女とやるだけだよ」
そんな答えが返ってくるのだとしても。
だとしたらその女の人生って?高級な?それともゆきずりの?
そんなふうに興味の連環は果てしなく続く。
ストーリーがいくらでも生まれる。


そう、そういうこと。


憧れる。今、一番会ってみたい人。