ダイアログ・イン・ザ・ダーク(その4)

その後、あれこれと考える。
例えば、こういうこと。
視覚と触覚の結びつきってとても強いんだなと。
普段の僕らの触覚の使い方としては、目に見えたものに興味を持って「触る(さわる)」となる。
視覚が失われるとその結びつきが失われて、触覚は単独で動くものとなる。
無防備に、受身に、「触れる(ふれる)」ことになる。
いや、音のする方に手を伸ばして触る(さわる)ことだって可能だろう、あるだろう。
しかし、そういうことを日常生活の中で行う機会は極端に少ないのではないか。
あるとしても、気になる音があって、目でそれが何か確認してから、手を伸ばすのではないか。


幼子だったら、音のするものに直接手を伸ばすということはあるかもしれない。
しかし我々は成長して大人になっていく過程の中でどんどん、
頼るべきものとして聴覚よりも視覚に対して比重を置くようになっていく。


視覚、この恐るべきもの。
僕らの感覚を支配している。
ゆえに失うことをとても恐れる。それは時として「死」にもなぞらえられる。
目に対する攻撃は残虐な行為として受け止められる。
目の病を忌み嫌う。
例えばガンのような直接に死と隣り合わせの病気とはまた違うニュアンスがある。


逆に、テクノロジーの進化の歴史、文化の発展の歴史は
視覚の拡張の歴史と言っていいかもしれない。
もっともっと、見えるようになること。
ものすごく小さなものが見えるようになる。
生身の体では行くことのできない場所の光景が見えるようになる。
それは「生」の拡張を暗に表している。
代理的に視野を拡大することで、そこに至るまでの時間の短縮を行うこと。


記号表現の発達もその1つに数えていいだろう。
イメージを定型化して共有化できるようにするということ。
それはまず視覚に対してなされる。
(クイズ番組で間違えたときの「ブブー」という音など
 聴覚の記号的表現も確かにあるけど、
 それは視覚に比べたら圧倒的に少ないのではないか?)


とはいえ、視覚も聴覚も単なるインタフェースの違いに過ぎなくて、
脳に情報として届いたときにはそこに優劣はないのでは?
ただ単に視覚はその情報量が多いというだけの話で、
そこが遮断されたならば聴覚や触覚の情報量が増えるということなのでは。
生きていく、そのために反応する、という究極の目的の前では、特に。
(「自由な」人ほど五感の使い方が上手いのはそういうことかも)


でも、色彩というものを目にしなくなるのは正直、嫌だなあ。
空の青、そこに浮かぶ白い雲。
いや、待てよ。視覚=色彩なのか。
なんか、そういう気がする。形よりも色。
フォルムよりも、色の取り合わせの方を僕らはより強く味わう。印象に残す。
というか、色の取り合わせがあってこそのフォルム。
色の境界線が、形の境界線となる。


なんか取り留めなくなってきたので、今日はここまで。


最後に。
目に見えるものよりも手に触れることのできるものの方が大事だ。
誰かがそういう発言をしていて、読んだときに僕もそう思った。
それが誰だったか思い出そうとして苦労した。
たぶん、いろんな人が同じことを言ってるのだと思う。
例えばブルーハーツの「ドブネズミの詩」の中、たぶん、ヒロトだけど、
「実際に手に触れられる場所が一番大切だと思うわ」という一節がある。
そういうこと。

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付記。


視覚の情報量が他の感覚と比べて圧倒的であるため、
そのまま受け取ると処理しきれなくなる。
よって、そこに情報の省略や統合というプロセスが生じる。
目の前の情報を絶えず分割して相互に関係性を見つけていく、
シンボルや連想を利用して圧縮をかける。
それがそのまま言語にも応用されたのではないか。
そんなことを考えた。