以下、読まないことをお勧めします。

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2/10(水)朝。
始発6:00の新幹線のぞみ1号で大阪に向かうために、これまた始発の丸の内線に乗ったときのこと。


中野坂上で若い男女2人が乗ってきた。カップルではないようだ。徹夜のバイト明けらしい。
何やら小声で騒ぎ出す。足元を見ながら「ちょっと!ちょっと!」って笑い合っている。
それとなく視線を向けると、何かがチョロチョロと動いている。
××××だった。季節外れの。何かの弾みで、卵から孵化したのだろう。
まだ小さくて、体が茶色い。しかし触覚はしっかりと長く伸びている。


「あ、そっち行った!」
「どこ?」
「そこ!そこ!!」


2人はお疲れ様ですと言い合いながら、新宿で下りていった。
代わりに初老の男性が座った。
彼はすぐにもその存在に気付いた。
不快感なしに、興味深げにその動向を眺めだした。
僕も読んでいた本を置いて、本格的に観察し始めた。


東北地方出身の僕は大人になるまでそれと出会うことがなかった。
大の苦手である。この世の何よりも嫌い。
それゆえに、いつも気になってしまう。
そのフォルムが、その存在が。


チョロチョロ、チョロチョロと床を行っては来たりする。
時々、触覚を震わせる。
ミニチュアというか、精巧なロボットのようだった。


しかし、それが自分の足元に来ると嫌なものであって。
僕は踏んづけることのないよう、そっと靴の先で払った。
まだ体が軽いせいか、結構遠くまで吹っ飛ばされた。
そしてひっくり返った。


最初のうち、何かにすがるかのように
その6本のか細い足を宙に向かってばたつかせた。
それもやがてパタッとやんで、足が「く」の字型に硬直した。


死んだのか。
あっけないもんだな。
触覚がだらしなく床に広がっている。


新宿御苑前から四谷三丁目。
僕はその姿をしばらくの間ぼんやりと見つめた。


すると突然、6本の足が痙攣したかのように激しく動きだす。
まるで海に溺れた人が水中を必死になってもがいているかのようだった。
そう思うとそれは単なる虫を超えた、何と言うか、そう、「生き物」に見えてきた。
今この瞬間もこの地球上で死を迎えようとしている
動物たちや人間たちの縮図というか代表に思えて、得体の知れない気持ちに襲われた。


パタッとやんで、またふと電源が入ったかのように動き出す。
それを何度か、何駅分か繰り返す。
しかしどれだけもがいたところでひっくり返った体は元に戻せない。
もちろん僕も、助けようとはしない。
東京に暮らす一般的な社会人として、そんなことするわけがない。


生きるのか、死ぬのか。
このままずっと、もがき続けるのか。
振動するうちに少しずつ位置が移動して、僕の方に近付いてくる。


そのとき、どこからか勢いよく歩いてきた女性がヒールの踵か爪先でそれを踏み潰した。
××××の体はそのまま引っ付いたのだろう、一瞬にして消えてなくなった。
いや、彼はその体液を残していた。床に、わずかばかりの。透明な。
それもしばらくするうちに乾いてしまった。
彼の痕跡は少なくとも僕の身の回りの世界からは消滅した。


僕はその女性の顔を見なかったが、
派手な服の感じからしてきれいな人なのだと思う。
それがあるとき、履いてた靴の底にへばり付いていた××××の存在に気付く。
悲鳴を上げる。
なんでこんな汚らしいものが?
僕はその光景を想像した。


地下鉄が東京駅に到着する。
僕は荷物を網棚から下ろしてホームに出た。
そしてそれっきり何日か忘れてしまっていた。
思い出すことがなかった。


死んでしまってその体が消滅した後は、
そいつは動物たちや人間たちの代表でもなんでもない。
次に生まれてくる嫌われ者たちの、過去の類型の一つに過ぎない。


例えばあの地下鉄のレールの裏にはどれだけの卵が眠っているのか。
どれだけの生を待ちわびているのか。
それがどんなふうにして死ぬのか。
その他大勢の、膨大な、枝葉末節に及ぶ、死。
その存在は誰一人として、望んでなどいない。