『1Q84 BOOK3』

今週ようやく暇になって、後輩から借りた『1Q84 BOOK3』を読み始めた。
昨日の朝の地下鉄、昼休み、帰りの地下鉄、夜に部屋の中で、
今日の朝の地下鉄、昼休み、仕事中こっそり、帰りの地下鉄、夜に部屋の中で。
600ページを2日で一気に読んだ。


しかし、結論から先に言うとこれはつまらなかった。
初めて、村上春樹の小説で失望した。
タイトルが同じで数字だけが足された続編なんて、書かれるべきではなかった。


BOOK2の終わりまでに構築された物語世界の中でずっと堂々巡りしている。
ただ、その輪郭がほんの少しぶれるだけ。
広がらない、先に進まない。「結果」として起きえることを文章にしただけ。


もどかしい。
青豆は幽閉されていて、天吾は自分が何をすべきか分からず同じ場所に留まっている。
仕方なく、前作までは脇役だった牛河が間をつなぐ。
即に読者が知っていることを探っていく。
猫の町の看護婦たちぐらいしか登場人物は増えない。しかも、それほど重要ではない。
若くして亡くなった天吾の母だとか、NHKの集金人だとか、
BOOK1・2までの物事が繰り返し現れて、少しずれた場所に収まっていく。
全てが予定調和。
物語が激しく揺さぶられて異なる次元を垣間見せることは、一瞬足りともない。


なぜ村上春樹はこの3作目を書く気になったのか。
売れるからでもなく、評判のためでもなく。読者へのサービスでもない。
不思議だ。何も見えてこない。
なんだか、村上春樹のそっくりさんが書いたかのようだ。
もはや80年代ではない。
羊をめぐる冒険』に対して、
全く別の続編として『ダンス・ダンス・ダンス』が語られたような、
そんな時代ではなくなった。
なんだか寂しく思った。


言いたかったことは、世界とは多元的なものである。
でも、信じることができれば、愛する人が隣にいてくれたら大丈夫。
そういうことなのだろうか。
なぜそれが結末の予想がつく600ページを必要とするのだろう?


なぜ、読者の想像力を補完しなければならなかったのだろう?
それが今の村上春樹にとっての物語を語るということなのか。

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今日は七夕。
青豆と天吾を思い出す。
やはりBOOK2で、続きを「予感させたまま」終わるべきだった。


出会うべきものは、出会ってはならない。
これは鉄則であるように思う。