昨晩観た。新藤兼人監督の1960年の作品。
瀬戸内の小さな島。夫婦と2人の小さな息子だけが住んでいる。
島の斜面にはわずかばかりの雑草のような作物が植えられている。
どうやら真水の湧き出る井戸はないようだ。
夫婦は小さな舟を漕いで隣の大きな島へと渡り、水を汲む。
天秤竿の前後に重たい水桶を担いで戻ってくる。
坂道を黙々と上って、フラフラになりながら上まで辿り着いて、作物に水をやる。
ただそれだけを日がな一日繰り返す。来る日も来る日も繰り返す。
舟を漕いで何度も往復する。
最初、ただその光景だけが続く。
音羽信子扮する妻が斜面でよろけて水桶を倒してしまうと、
殿村泰司扮する夫が本気で殴った。
セリフなし。音楽と、思わず漏らしたいくつかの声だけ。
それはつまり説明もないということであって、
彼らがなぜこのような島で流刑のような生活を送っているのか、さっぱり分からない。
それはもうそういうものなのだ、彼らにとってもそれが当たり前のことなのだ。
そう思うしかない。
音羽信子がとにかく素晴らしい。
日々と季節を繰り返し、ただただ生きていくより他にない。
全てを知っているような、何も知らないような、
何もかも諦めたような、全てを受け入れたような、そんな表情を終始浮かべている。
この女性には感情というものがあるのだろうか? と最初のうち思う。
しかし、子供が喜ぶと自分も喜び、
ドラム缶の風呂に入るとそっと緊張をほぐしたような顔になる。
素朴な、というよりむしろ原始的な喜怒哀楽が描かれる。
ああこの人もそれなりに人間なのだ。
なんだかホッとした気分になる。
それと同時に、どことなく落ち着かない気持ちにもなる。
無言で舟を漕ぎ、重い荷を背負って坂道を上り、
粗末な小屋に住み、乏しい食べ物にありつく。
なぜ彼らはそこまでして生きなければならないのだろうか?
というか、僕らが普段「生きる」ことの是非や美醜を語るとき、
それは「生きる+α」のアルファ、余剰の部分について語っているのだと気付く。
気付かされる。
僕らは、生きることについて何も語っていない。何も知らない。
子供たちが海で釣った魚がとても大きくて立派で、
桶に入れて「本土」(と言った方がいいだろう)に売りにいく。
どこに行っても断られて、最後やっと魚屋で引き取ってもらう。
それでもいくらかはお金になったようで、外食し、子供の衣類を買い、
4人はロープウェーに乗って丘の上へ。
このときに見下ろした下界の風景。
特に何があるわけでもない。家々が建ち並ぶだけ。
だけど文明というものを写し撮った光景として、
これほどハッとさせられるものはなかった。
制作費はたったの350万、スタッフは役者も含めて13人だけ。
独立プロゆえか完成後、国内では黙殺。
しかしモスクワ映画祭でグランプリを獲得した後、
世界60ヶ国以上で上映されることになった。
遠く向こう本土にて打ちあがる花火と、全てを投げ出した最後の慟哭と。
一生忘れられない。必見。
人間とは何なのか?
その答えのひとつが描かれている。
やはりそこには、何もないのだ。