熊本地震から1年

昨日、熊本の震災から1年目。
妻も熊本に帰って過ごした。


前震のことを最初に知ったのは夜、母から電話があって。
テレビで見たと。僕らはその日出かけていた。
帰ってきて妻があちこちに電話をかけてみた。
義父母も祖母も僕の知っている方たちは皆無事だった。
熊本にこんな大きな地震が来るなんてねえ、と話すのを聞いた。
その後すぐ本震が来るとは思ってもみなかった。


健軍神社の先にある益城町は古くからの家は大丈夫だったが、
新興住宅地に建っていた家はことごとく倒壊したという。
活断層が通っていた。
熊本城の石垣が崩れた。ここもやはり清正公のつくったままの石垣は壊れず、
近年修理のため手の入ったところがダメになった。
余震が続いた。人々は家の中ではなく、夜は車の中で寝た。
エコノミー症候群になった人も多かった。
この家は半壊なのか全壊なのか。役所に判定してもらうのに時間がかかる。
全壊した家を取り壊すにも業者が出払っていて何カ月も先。
実際、震災後僕が初めて熊本に向かったのは2月のことだったが、
住宅を更地にする作業が今も続いていた。


2・3日して状況が落ち着くと妻の友人たちがさっそく行動を開始した。
全国から届く支援物資を福岡で受け取って、熊本まで車で運ぶ。
もちろん自分たちのためではなく、避難所に暮らす人たちのため。
僕ら夫婦もペットボトルの水を箱で、この人が中継点になってくれると聞いて送った。
そういう草の根的な支援が1週間か2週間か続いたか、いや、もっとか。
やがてボランティア組織が機能していくようになった。
家が概ね無事で修理の手配が早かった妻の友人は一か月も経たないうちに仕事を再開した。
余震が収まることはなかったが、働かないことには食べることができない。
避難所に行って何食わぬ顔をして食べ物をもらってきてゴロゴロ暮らすなんてことはありえない。
自分の生活は自分で復旧させていく。


震災から一週間頃に銀座熊本館に行くと入るのに行列、中でもレジ待ちで並ぶ。
熊本出身か、あるいは熊本に縁のある方か。
はるか遠く離れて、だけど近づくことはできなくて、
居ても立っても居られない人たちが大勢いた。
食べて復興支援とか買って復興支援を意味がないとバカにする人もいるが、
心がそこに向くということが何よりも大事なのだと思う。


熊本地震と呼ばれるが、大分の被害も大きかった。
そのことを今、忘れてないだろうか? どうなんだろう。
なんで九州中部地震といった名称とならなかったのか。
そうすると逆に曖昧なものが残って、熊本が震源地ならばやはり熊本地震か。


妻が熊本で生まれ育ち、義父母は熊本に暮らしている。
まさか日本の北と南で、とは全く予想もしていなかった。
この数年で熊本を何度も訪れたことで第二の故郷となっていた。
もしそうなっていなかったら、今回の地震は自分にとってどんな意味を持っただろう。
そんなことをよく考える。
国内の全ての地震に胸を痛め、地球上の全ての災害に涙する、
そんな心の広い人間ではない。
そのことに思い至ってゾッとする。


一年が経過して、まだ避難生活を続けられている方たちが何万といる。
桜は届いたか。いつになったら春となるのか。