吉田拓郎の唄

昨晩テレビを見ていたら『Love Love 愛してる』の16年ぶりの特番が。
最近、Kinki Kids があれこれ売り出してるからその一巻かな。
驚いたことに吉田拓郎が出てた。ちゃんと。よく出たなあ。いろんな意味で。
もちろん演奏も加わって、結構喋っていた。
世の中の人、50代、60代の拓郎ファンをはぐらかすようなひょうひょうとした感じは相変わらず。


中学校の美術の先生がかなりの拓郎ファンだった。
友人が、先生自ら選曲してテープをつくった吉田拓郎のベストをもらったというので
それを借りて僕もダビングした。
今思うとかなり音は悪かったんじゃないか。でも全く気にならなかった。


そのテープもどこかに行ってしまった。
「今日までそして明日から」「イメージの詩」「マーク?」といった並びだったように思う。
完璧。僕がベストを組んでもそうするし、この3曲が結局一番好きだ。


もう1曲忘れられない曲があった。
「ペニーレーンでバーボン」
その頃ビートルズばかり聞いていたというのもあるだろう。
サビはタイトルのフレーズをけだるく、切なく繰り返す。


何年か前に聴き直したくなって、ちょうど出たばかりの2枚組のベストアルバムを買った。
『The Best Penny Lane』というタイトルだったが、「ペニーレーンでバーボン」は入っていなかった。
まあそういうこともあるか、と思った。
収録時間がいっぱいだとか、そこまで有名な曲ではないとか。


あるとき、真相を知る。
歌詞の中の「つんぼ桟敷」というフレーズが原因で…、という。
収録されたアルバム『今はまだ人生を語らず』もなかなか再発されず、
再発されても冒頭のこの曲が除かれていたり。


心無い差別用語の投げつけはもちろん許されないことだ。
しかし、何十年も前の歌詞がいまだに頑なな態度を取られているというのもどうかと思う。
言葉というものがその間全く変化しないという前提に立っているかのようであるし、
必要なのはその「つんぼ桟敷」という言葉が用いられた当時の意図や背景を探ることだ。
それを現代と照らし合わせてどう捉えるか。
ある詩については「いや、今もまた悪意を感じる」という解釈もあるだろうし、
ある詩についてはそもそも差別用語として風化したという判断もあるだろう。
一番いけないのは、思考停止、思考放棄、再発さえしなければいいという事なかれ主義だ。


昔の小説や漫画を文庫で読んでいると巻末にて
差別的表現が見られるけれども作者の芸術的意図を尊重してそのままとした、
みたいな但し書きが添えられていることがある。
なんでそれができないのか。
本よりも音楽のほうが動くお金が大きいからか。
表現の自由を言いたいのではない。
そもそも、今の若者たちに「つんぼ」と言って通じるのだろうか。


この話を妻にすると、こんなことを言う。
「差別的表現が使われているのを理由にゆすり、たかりを行う団体もあるからね」
なるほど、そういうことか。被害者のふりをして。
問題は根深い。