14日の続き。
「ル・プライエ」を出たのが13時半。
そこからさほど遠くない、荒尾市の宮崎兄弟の生家跡へ。
こちらもまた客の姿は他に二人だけ。
その地方を代表する名家でありながら民を助けよという正義感の強い家系。
明治大正と革命にその身を捧げることになった
宮崎八郎、民蔵、彌蔵、虎蔵(滔天)。
孫文を助けて辛亥革命の立役者の一人となった宮崎滔天の名前は知っていたが、
他の兄弟のことはよく知らなかった。
その滔天も革命思想の普及のために旅回りの一座に加わって浪花節を歌い、
全国を回っていたのだという。
朝ドラ『花子とアン』で大事な役どころとなった白蓮のコーナーもあった。
新聞に掲載された当時の夫に対する絶縁状のコピーをもらった。
これが相当に激烈な内容だった。
2階にビデオコーナーがあって、兄弟の生涯を追ったビデオを見た。
展示では横井小楠も少し取り上げられていた。
資料館は蔵を改装したもので、その横に生家がある。
客間だったか、孫文と宮崎滔天のろう人形が向かい合って座っていた。
互いのことばが放せず、二人は筆談で交わしたのだという。
滔天は孫文を宮崎家に招き、辛亥革命後にもう一度招いた。
名家とは言え珍しい客人に何を供したらいいかわからず、
刺身に鰻にふんだんに出したが、苦手な食べ物にも孫文はオーライオーライと。
あれこれと興味深い話が多かった。
15時過ぎ、荒尾市のもう一つの観光名所であり、
世界遺産にも選ばれた三井三池炭鉱の万田坑跡へ。
『CREA』の旅行特集で村上春樹も訪れていた。
世界遺産だけあってこの夏休み観光客が大勢訪れているだろうと思いきや…、
駐車場は小さくて、停まっているのは他に2・3台。
この日は行く先々で人がいなかった。
宮崎兄弟の生家と万田坑とセットの入場券が500円。
万田坑ステーションという資料館にまずは入る。
イントロダクションとなる記録映像の DVD が大きなモニターに映し出されている。
万田坑のジオラマが中央にあって、
奥には写真家が撮影した当時の光景が貼り出されている。
昭和天皇も訪れていた。頭にヘッドライトをつけている。
『るろうに剣心』の撮影がここ万田坑でなされたとのことで
江口洋介の着た衣装も飾られていた。
僕らが入ったのは15時半前、
ボランティアガイドによる解説は15時の回が終わったばかりでこれが最終だった。
まあしょうがないかと思っていたら窓口の方の計らいで
特別にガイドの方が出てきてくれた。ジオラマを前にして語り出す。
今年84歳だったか、とてもそうは見えない達者な方だった。
75歳まで来の炭鉱で働いていたのだと。
閉山が1997年、その後坑道を埋めるなど補修工事が2009年まで続いていたというから
その最期を見届け、再生を見届けているのだろう。
三井三池炭鉱は万田坑を含む9つの鉱山の総称となり、
当時は無料の鉱山列車で結ばれていた。
万田坑ともうひとつが熊本県に属し、残りは福岡県大牟田市となる。
鉱山のトンネルは地上だけではなく有明海の地下にまで網の目のように広がっていた。
その地下トンネルは堅坑から下りるのに1分はかからず、
しかし採掘現場の最前線へと横に移動するのには1時間15分かかったという。
奥底ではとにかく喉が渇くので一人5〜6リットルの水を抱えて行った。
掘り出した石炭はトロッコで運ばれエレベーターを上っていく。
地上に出ると選炭場へ。
トロッコごとひっくり返され、炭鉱夫の妻たちが石炭と石(ボタ)を選り分ける。
万田坑の自慢は炭鉱につきもののぼボタ山がないのが自慢で、有明海の埋め立てに使われた。
解説は写真のコーナーへ。
1963年、三川抗での爆発事故。煙が高く上がっている。
トロッコが暴走して火花が散り、石炭に燃え移った。
最初は負傷者がいるようだ、という話だったのが、
450人近くの方が亡くなり、800人近くが閉じ込められた。
あるいは炭鉱で働いた後の写真。顔が真っ黒になっている。
子どもたちは父親を迎えに行くが区別がつかない。
父親の方から子どもの名前を呼んで、ようやく会えたという。
その後親子で風呂に入る。当時は大浴場がいくつか用意されていた。
妻は給料は多かったのかと聞くと、それはとても多かったと。
でもそれは危険と隣り合わせだったからと。
話は竪坑のリフトへ。ワイヤーロープの一部を見せてもらう。
中を油が通るようにして錆びないようにしていたが、
それでも人を運ぶものなので二年に一度は好感した。
直径10cmにも満たない。こんな細さで支えていたのかと思うとびっくりする。
ジオラマに戻る。
奥の方に売店がある。ここは今でいうスーパーのような品ぞろえで
一つの町のように、生活圏が出来上がっていた。
ガイドの方も高校生時代アルバイトで物品を運んでいたと。
自転車では間に合わずバイクで。
見ると「山の神」と書いているところがあって、その名の通り山の神様が祀られている。
炭鉱夫は坑道に入っていく前、出てきた後に必ず手を合わせていた。
第二竪坑は今も残り、もうひとつの第一竪坑は早々に解体されて北海道、芦別の炭鉱へ。
当時炭鉱の仕事を求めて北海道から移り住んできた家族も多かったという。
一通り話し終えるとガイドのおじいさんは少し自分のことを話し始め、
高額なメダカを飼い始めたとか、メタセコイアの株を育てているとか。
玉名が金魚で有名だから、どこかで話がつながっているのだろう。