記憶喪失。
恋人が目を覚ましたとき、僕は彼女の手を握っていた。
病室。ベッド。夜が明けようとしていた。
「どこ?」
―――彼女が最初に言った言葉。
彼女は僕のことを死んでしまった兄のことだと思った、
そして彼女には死んでしまった兄などいなかった。
彼女は、彼女が眠っていたときに見た夢のことを語った。
それは限りなくありきたりで、凡庸な話だった。
僕は悲しくなった。
悲しくて悲しくて悲しくて、やりきれない気持ちになった。
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それから先の長い長い時間。
医者や看護婦や彼女の家族やその他いろんな人たちが現われては消えていった時間。
その後で、
―――その後で僕は彼女を僕のアパートに連れ帰った。
僕が仕事から帰って来ると、彼女はいつも2階の窓から通りを眺めていた。
「何が見えるの?」と僕は時々、質問してみた。
「いろんなこと、」と彼女は言う。
たくさんの人が歩いていて、それを眺めているだけで楽しい、彼女はそんなことを言う。
そして付け加える。
「お帰り、お兄さん」
そして僕は「妹」が作ってくれた食事を食べる。
「おいしい?」と聞かれるので僕は
「おいしいよ、」と答える。
そう答えると彼女は決まって、嬉しそうに笑う。
その後で僕は食器を洗って片付けて、彼女がテレビを見ながら笑っているのを眺める。
部屋の隅の机。その椅子に座って。
彼女が振り返って「今のおかしいよね、」と言うので、
僕も「おかしいね」と答える。
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ある晴れた日曜日、僕はちょっとした気まぐれから彼女を車に乗せて海に出かけた。
寂れた季節外れの海水浴場につくと、彼女は砂浜を走り出した。
そして彼女は大声で僕に向かって言った、「海を見るのは初めて!」
僕は彼女の側に立って並んで海を眺めた。
寄せては返す波が途切れることなく続いた。
どれだけ時間が過ぎていっても、海辺の風景は変わらなかった。
彼女がいて、僕がいて、そしてただ、それだけ。
悲しくて悲しくて、やりきれない気持ちになる。
彼女がその手を無意識のうちにそっと僕に向かって伸ばす。
―――僕はその手を握った。
握り締めて、
そしたら、―――涙が出た。だけどそのまま、海を眺めた。
そんな僕に気付いて彼女は言った。
どうして、
泣いてるの?