青森帰省3日目(「津軽」を訪ねて)⑤小泊〜金木

竜飛岬を後にする。
津軽半島を長方形と見立てたとき、今度は左側を南へ南へと下っていく。
岩木山がずっしりと聳え立っている。麓がうっすらと雲に覆われている。
右側には日本海、左側にはいくつもの峠。曲がりくねる山道をひた走る。
日陰の日の当たらない斜面には5月になろうというのに雪がまだ積もっていた。
白いきれいな雪の塊ではなくて、
溶けきらずに平べったく抜け殻のように横たわる、ところどころ黒っぽく汚れた雪。
木々はまだ芽を出さず、ほとんどがまだ秋や冬のように茶色い枝のままだった。
わずかに青々とした箇所があってまだらな模様となっている。
あと1週間か2週間したらここも新緑の季節となるのだろう。


競技用のプロ仕様の自転車を投げ出して道端で眠っている男性がいた。
倒れたり怪我にあったのではなく、きちんと両腕両足を揃えて眠っていた。
「まさか死んでんじゃないよな・・・」とケンと僕は一瞬不安になる。
だけど引き帰したりはしない。あくまで疲れて寝てるだけだろうと。


小泊村に入る。
ケンが寄りたい箇所がある、そこには「タケ」と太宰の像がある、と言う。
僕はここにそのようなものがあるとは知らなかった。
タケと聞いて「ああ!」と思った人はなかなかの通である。
若くして津島家の女中となり、幼年時代太宰治の子守を勤める。
津軽」のクライマックス、太宰は津軽を彷徨した末に当時小泊村に嫁いでいたタケに会いに行く。
村では運動会が行われていて、太宰とタケは隣り合って座り、
何十年ぶりの再開だというのに2人は何も言わず、ただ黙って子供たちの走る姿を眺める。
不思議と温かい涙を誘う名場面である。
あの太宰が「私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい」とまで語っている。
着いてみると確かにその2人の像があった。
太宰は写真でよく見かけるあの姿形をしていて、
タケは想像通りの優しそうなおばあさんで、背中を丸めてちんまりと座っていた。
泣けてくる。


横にある記念館に入る。入場料は200円と安い。村で経営しているのだろう。
記念館はかなり立派なもので、タケと太宰の出会いと再会とその生涯を中心とした展示物が飾られていて、
パソコンで情報の検索ができたり、小さなビデオシアターまであった。
なのに悲しいことに客は誰もいない。
こんな立派なものを作ったというのに。
パンフレットには入場料300円と印刷されていたのを、
薄手の白い紙でシールを貼ってわざわざ200円と値段を下げている。
なんだか物悲しい。もったいないなあ・・・。
津軽」を最後まで読み通した人ならば「タケ」という名前に少なからず心揺さぶられるが、
そんな人世の中では圧倒的に少数派なんだろうな。
「タケ?誰だそれ?太宰?興味ないな」そんな人ばかり。
いいも悪いもない。そういうものなのである。残念なことに。
ケンはボソッと「タケさんは小泊村の一番の観光資源なんだろうな」と感想を言う。
そう、小泊村はその特色を一言で言えば「太宰の子守をした女性が嫁いだ先の村」
ということになって、それ以上のものは何もない。
津軽」のあの場面と現代との落差にえもいわれぬ気持ちになる。
時間が来てタイマーが作動したのか、無人のビデオシアターから音声が聞こえ出した。


映像コーナーで晩年のタケさんの生活を撮影した短いフィルムを見る。
テレビのドキュメンタリーだったのだろう。
何気ない生活の一こまなのになぜか涙ぐみそうになるがこらえる。
コンピューターで合成した太宰の声が「津軽」を朗読するというのがあったので聞いてみる。
予想に反して太宰の声が割りと甲高かったのでちょっとがっかりする。
受付では太宰の色紙が売られていた。直筆の原稿から転写したもの。
人間失格」の冒頭部分のがあったので僕は会社の机に飾っておこうと1枚買う。
「私は、その男の写真を三葉、見たことがある」の部分。
日々の暮らしに流されそうになったら、これを見て自分を戒めるわけだ。
津軽」のもあったが、気持ちが和んでしまいそうだったのであくまで「人間失格


小泊からさらに南に下っていって金木町を目指す。
太宰が生まれ育った場所。「津軽」ゆかりの地を訪ねて回ったこのドライブも終着点だ。
もちろん目的は斜陽館。ようやく見に来ることができた。
僕の住んでいた油川から金木までは直線距離にしたらかなり近い。
僕が高校時代に自転車で通った距離の2倍ぐらいか。
なのに電車で行こうとするとローカル線をひたすら乗り継ぐことになって
行って帰って来るならば1日がかりだ。
青森に帰省するたびにそれでも電車乗っていこうかと何度か思ったがその度に諦めた。
妹に車で連れてってもらえそうなこともあったが、それも直前になってぽしゃった。
前回1年半前にケンと2日がかりで下北を回ったときには
蟹田までフェリーで渡って最後に斜陽館を訪れることになっていたのに、
閉館時間に間に合わなくて悔しい思いをした。


目の前には十三湖が広がる。前回は車を停めたが、今回は素通り。
川岸のあちこちで畑を焼いている。
オレンジ色の大きな炎。灰色の煙がもうもうと舞い上がっている。最初は火事かと思った。
中里町を通り過ぎて金木町に入る。
芦野公園は桜が満開で屋台が軒を連ねていた。
通りをゆっくりと道なりに進んでいくとやがて斜陽館が見つかった。


ああ遂に!そう思いながら足を踏み入れる。
でもはっきり言って拍子抜け。
「太宰」と聞いて心に思い描くドロッとしたものを濾し取ったような薄暗い部分、
あるいは陽気でありながらどことなくグロテスクな部分、あるいは陰影に満ちた苦悩、
純粋無垢な真っ白な清らかさを求めているのにどこまで手を伸ばしても届かない一筋の光、
そういう、澱んだ、得体の知れないものは微塵のかけらも感じさせなかった。
あるのはただただ戦前の旧家の、無口で無骨な歴史の重みだけ。
特定の時代の名残を残す民俗学的価値、「遺物」としか僕には思えなかった。
斜陽館は戦後津島家から売却され、その後旅館として生き残り、10年前に町に買い取られた。
その間にアクはひたすら綺麗に払い落とされたようである。
戦後はまだある種の生々しい雰囲気が漂っていたのであろうが、
太宰の亡霊が残っているようでは旅館は人が呼べない。
全国の太宰ファンを集めているだけでは経営が成り立たない。
ここは本当に太宰の生家なのだろうか。何かの間違いではないだろうか。
どこをどうしたら後に「人間失格」を書くような人間を生み出す家となるのだろう。
それともただ単に太宰治がモンスターだったのか?
古い気質を持ったあらゆるものから飛び出して、その破滅を願うような・・・。
「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである」
年月を経て死に絶えたこの建物は太宰が評したそのままの風体と成り果てた。


向かいのお土産物屋「マディニー」に入る。
ケンが「他には何を読んだらいい?」というので僕は
走れメロス」「ヴィヨンの妻」「グッド・バイ」を薦める。
走れメロス」は中学か高校の国語の時間に読んだ・読まされたとき、
あまりの白々しい正義感に「なんだこれは?」と嫌悪感を催した人も多いと思う。
だけど今にして思えば、僕なんかは身につまされる。
無償の思いで友を助けに行くなんて。
たぶんこれを書いた当時の太宰はこういう内容の作品を書くことで
自らの文章で救われたいという気持ちがあったのではないだろうか。
この荒みきった薄汚れた世界で誰も口に出して言わないのなら、
この私が書かなくてはならない。そして誰よりもその真実でこの私を救いたい。
僕は今そんなふうに思う。