幽霊

恋人の幽霊が現れた。


あれは午前0時になったばかりのタイミングだったと思う。
僕は部屋の電気を消してベッドに潜り込もうとしていた。
ふと見ると真っ暗な中に青い微かな光がぼんやりと漂っていた。
パチパチ、パチパチと静電気がはじける音がした。
空気がひんやりと張り詰めている。
僕の目の前にモヤモヤとしたイメージが浮かび上がって、次第にそれが鮮明になっていく。
それはやがて彼女の像として形をなした。
「像」と呼ぶのは、彼女の姿が完全に静止していたからだった。
静止画像のような、ホログラフのような、そんな姿だった。
両手は手の平をこちらに向けて胸の前で固まり、何かを探るような、あるいは、
何かを拒否するような、必死でガードしているような身振りを示していた。
その両目はここではないどこか別の世界の何かを見つめ、
何かを強く訴えかけるような、何かに困惑しているような表情を浮かべていた。
彼女は助けを求めていた。


「驚く」とかいう以前に、そのときは頭の中の何もかもが消し飛んでしまっていた。
僕は部屋の中で立ち止まったまま、凍ったようになってその像を眺めていた。
どれぐらいの間そうしていたのかはわからない。
彼女の姿は突然ふっと消えてしまった。
5秒間のことだったのかもしれないし、5分間のことだったのかもしれない。
部屋の中には暗闇だけが残された。


その日は彼女の命日だった。
その1年前に彼女は事故で死んだ。

    • -

「彼女は何を訴えたかったのだろう?」
それからずっと、僕は考え続けた。
成仏できずに現世をさまよって、
実は常に僕の周りを、今、この瞬間にも漂っているのだろうか?
そしてこの僕に対して何かを言おうとしているのだろうか?
何を言いたかったのか。
それはわかるような気もするし、永遠にわからないような気もする。


彼女を突然失ったことに対する苦しみ、悲しみ。
その中を僕は1年間ひっそりと生きてきた。
周りの人に対しては何も変わらぬように接してきたつもりではあるが、
心の中では常に沈み込んだようになり、鬱屈したものを抱えていた。
時としてそれは暴発し、やり場の無い気持ちを押さえ切れずに眠れない夜を過ごした。
この世の中のあらゆるものを呪い、罵った。


そういったものの全ては、今思えば、実は僕を中心とした
あくまで僕のための感情だったことがわかる。
僕は彼女と向き合っているのではなく、僕自身と向き合っていた。
彼女の「幽霊」が現れたことで
僕はこの世界がもっと複雑なものであることを知った。

    • -

この一件があってから、僕は彼女の写真を自宅の机の上に置くことにした。
それまでは彼女の写真の束を厚手の封筒に入れて引き出しの奥深くに仕舞い込んでいた。
取り出して写真立ての中に入れた。
一番いい笑顔の写真を選んだ。
僕は別に彼女の写真に話し掛けたり、同じように笑いかけたりするようなことはしない。
だけど、日々の暮らしの中で何かがあったとき、
悲しいとか苦しいとかそんな単純な言葉では捉えきれない、
複雑な気持ちに直面した時、彼女の写真を手に取って眺める。