アパートの近くの小学校が閉校したことを以前書いた。
最近になって取り壊された。
工事現場の高い塀で囲われていて、一部しか見えない、もちろん中にも入れない。
しかし、通りを少し行って柵の全体像を見渡せる場所から眺めるならば、
かつてあったはずのあの大きな建物、あれはもうないんだなあと。
立ち止まって、ほんの少しの間見つめて、半ば不思議な気持ちになる。
空間にポッカリと大きな穴が空いている、その抽象的な不思議さが半分。
家の近くにあって毎朝毎晩眺めたけど、
この小学校に通ったわけではないから取り立てて悲しい気持ちになるわけではない、
という大人びた無関心が半分と。
これまで10年間目にしていた風景が一部、がらっと変わってしまう。
別世界に迷い込んだかのような、自分が異邦人であるかのような・・・
すぐにも慣れて、受け入れて、それも普通になるんだろうけど。
この数日のもやっとした違和感もいずれ消えていく。
何かが替わりにそこに建って、
僕はそこに小学校があったことすら忘れてしまうのだろう。
あれだけの大きさだと僕には爆心地のように見える。
ある日突然何物かによって全て奪われたかのような。
ワールド・トレード・センターの跡地もこの小学校のようにあっけいないものだった。
過去は過去のものとして切り離して、物事は前に進んでいく。
日曜日、静止したクレーンを見て僕はそんなことを思った。
ワールド・トレード・センターの跡地も、見に行ったのが日曜だったからクレーンが静止していた。
建物が無くなったその一方で、人々の記憶の中には残り続けて。
色褪せて風化していくのかもしれないが、
過去のある瞬間が、その連続が、心の中のどこかに刻まれていく。
僕は今、これまでの人生で見かけてきた、
取り壊された大きな建物たちのことを思い返してみる。
その時々には大きな穴が開いたようになったものの、それはすぐにも埋められていって。
こんなことが無ければ思い出しもしなかった。
小学校の木造の校舎とか。青森市の県立図書館であるとか。
まだ小さいときのことだったから、感じた「不思議さ」はとてつもなかったはずだ。
なんで消えてしまったの?どこへ行ったの?どうしてなの?
今はもう、そういう疑問を持つこともない。
何事もただただ受け入れるだけ。
9.11の事件についても。青森で地震が起きても。
「そうか」と。あっさりしたもの。
後でその名残を見て、再度「そうか」と思う。
オチ無し、結論無し。
かこつけて人生を語るほどのことでもない。