ペットやぬいぐるみ、サボテンや写真

部屋で一人でいるとき、
ペットやぬいぐるみ、サボテンや写真に話しかける人がいる。
女性の場合、かなりの割合でいるのではないかと思う。
実際のところどうなのかわからない。
(とりあえず僕はそういうことしないです。
 僕がやってたら本当にやばいと身の回りの人は思うでしょう)


人はどこの誰であれ、多かれ少なかれ他の人に話しかけずにはいられない生き物だ。
そういう意欲がなくなったらかなりの危険信号。
人は孤独から逃れようとする。様々な手段を利用して。
すぐ側に気安い話し相手がいなかったら
見知らぬ他人よりはペットを選ぶ、まあこれは当たり前のことだろう。


人工知能の研究・開発が進んで
一頃のAIBOぐらいの感覚でロボットが買えるようになったとき、
それは遊び相手として買うのではなく、やっぱり話し相手だよな。
孤独から逃れるための代替物として。
夜、仕事から帰ってきて話しかける。
食事をしながら話しかける。
寝る前に話しかける。
今日こんなことがあったよ、あんなことがあったよ。
辛かったこと、楽しかったこと、むかついたこと、嬉しかったこと。
その一つ一つに、ロボットがまるで家族や親しい友人や恋人のように応える。
辛かったんだね、それはこうしたらいいよ、ボクもその人に会ってみたいな。


そのうち、依存症に陥る人もいるだろうし、
話している相手が人間なのかロボットなのかという区別や差異に
興味を持たなくなる人も出てくるだろう。


スクリーンに映し出される映像か、あるいは具体的な形を持つものか、
様々な感情の入り混じった表情を浮かべることすら可能になる。
一目見ただけでは人間と見分けがつかなくなる。アンドロイド。
旧世代の人間は話し相手がロボットであるということを
顕在的に・潜在的に意識するだろうけど、
新しい世代の子供たちは生まれたときから人工知能に囲まれて、
そういう分け隔てにそもそも意味を感じなくなるのかもしれない。


いや、人間の本能ってものにはかなりの力があって
どれだけ時代が移り変わっても
人間とロボットの違いを明確に感じ取るのかもしれない。


どちらとなるにせよ、何かしらの危機感が人類全体に生まれるだろう。

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SFによく出てくるテーマとして、
アンドロイド禁止令やアンドロイドの氾濫ってのがある。
あるいは、人間とアンドロイドとの間での恋愛。
例えば有名なものを挙げるならば前者としてはやはり
P・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」であり、
後者としてはエドマンド・クーパーの「アンドロイド」などがある。


人間に憧れるロボットたち、人間を憎むロボットたち。
ロボットに憧れる人間たち、ロボットを憎む人間たち。
このテーマはSF特有のものかと言うと実はそうではなく、
その根底にあるものはひどく普遍的である。
肌の色合いの異なる人たちへの根源的な違和感、嫌悪、憎しみ。
異なる人種や民族間での対立により引き裂かれる恋人たち。
ただその表象がロボットにすり返られたというだけである。

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人工知能を持つ、ペットやぬいぐるみ、サボテンや写真について考える。


「大切な人」「大切だった人」の記憶や思考パターンをデジタルな記録に置き換え、
これらの中に埋め込む。


妻が亡き夫の写真を手に取り話しかけると、写真の中の夫が妻にそっと語りかける。


人工知能で実現されるものは人間の知能とは限らず、犬の知能というのもありえるかもしれない。
ならばそれはサボテンの知能であってもよく、
完全に無機物(プラスチックと金属)で構成された種子が発芽し、
固有のアルゴリズムに基づいて植物そっくりに育っていく。
一定の条件を満たすと枯れていく。
300年後ぐらいにはそういうもので溢れ返っているかもしれない。


元は無機物で、プログラミングによって動くものであるから、
容易に他の種と融合していく。植物だろうと動物だろうと。
暴走するプログラムが恐るべきスピードで奇妙な「生物」を生み出していく。
なんかそういう物語とか漫画とか映画ってたくさんありそうだな。