「ミュンヘン」「ホテル・ルワンダ」

仕事が落ち着いて暇になってきたので会社を休んで渋谷に映画を見に行った。
ミュンヘン」「ホテル・ルワンダ」この2本。


奇しくも対立する民族の争いをテーマとして中心に据えた2本を見たことになる。
ミュンヘン」は70年代イスラエルにおけるユダヤ人とパレスチナ人の対立
(もちろん、それは今に至るまで続いている)を描き、
ルワンダはそれは国内のフツ族ツチ族の覇権争い。


報復が報復を呼び、暴力が暴力を生んでいく過程で
「誰が正しいのか?」という議論は何の意味も成さなくなる。
それぞれの立場から語られる真実や事実が交錯するのみである。
その渦中にいる人はそれぞれの局面において
「自分にとって正しい」と思うことを貫くしかないのだな、ということを見てて思った。
生きるか死ぬかの瀬戸際では迷っている暇などない。
勝利など存在しないが、敗北という名の死はいくらでも転がっている。


第3者が仲介に入って「対話」を行えば済む話なのか?
到底そうは思えない。
答えはない。恐らく、最初から存在しない。これからも存在しない。
当事者にとってはただ憎しみがあるだけ。
神様がいるのなら、どうしてこの世界をこんなふうにしてしまったのだろう?

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ミュンヘン


72年。ミュンヘンオリンピックにてイスラエル選手団が
パレスチナ解放を求める過激派によって誘拐された後、全員殺害される。
イスラエルの秘密組織「モサド」は
過激派の指導者11人を報復として暗殺することを決定。
主人公たちは1人1人と潜伏先を見つけ出し殺害していくが、
報復は報復を呼び・・・


スティーブン・スピルバーグ監督最新作。
さすがの内容。ずしりと重たい内容なのに
サスペンス映画としての押し引きがうまくて3時間があっという間。
(この編集の素晴らしさはただものではない)
そもそも娯楽作品として面白いのに、当事者の「苦悩」が如実に伝わってくる。
なのに息苦しくはない。
社会派でありながら、冷酷・冷徹ではない。
あくまでその場を生きる一人一人の人間のドラマとして描く。


余談として、爆発物のスペシャリストが日々せっせと作ってる仕掛けと繊細な玩具が
次から次に繰り出されて、その辺の遊び心が実にスピルバーグっぽい。


これが最高傑作だとは思わないけど、
ここ何作かではベストではないか。
シンドラーのリスト」「プライヴェート・ライアン」
という90年代の重要作品を見てないで言うのはかなりあれだけど
キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」か「ミュンヘン」かってところだと思う。


主役のエリック・バナがよかったです。
ジェフリー・ラッシュがかなり映画を引き締めてた。名優の域に達してますね。

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ホテル・ルワンダ


90年代半ばのルワンダフツ族ツチ族の民族間の緊張は最高潮に高まり、
フツ族出身の大統領をツチ族が殺害したのをきっかけに国内は内乱状態へ。
フツ族によるツチ族民族大虐殺が始まる。
(なんと100日で100万人が犠牲に。なのに国際的にほぼ知られてない出来事)
西洋諸国は見殺し、国連は無力。腐敗する軍隊は賄賂を握らせないことには動こうとしない。
そんな八方塞がりな状況の中で主人公であるフツ族のホテルマンは
行き掛かり上ツチ族の難民たちをホテルにかくまうことになったのだが・・・
という「ルワンダシンドラー」の話。「ミュンヘン」同様、これも実話。


平日とは思えない盛況ぶり。
これってアメリカでの公開時に日本では公開されなかったんですよね。
アカデミー賞にノミネートされたことによって配給権が高くなった割に、
主演がドン・チードルなので「客が呼べない」と・・・
しかしその後この映画を見た若者が中心となって
日本でも是非とも上映すべきだと mixi を起点に署名活動に発展し、
5000人を集めて公開に漕ぎ付けた。
http://nikkeibp.jp/wcs/leaf/CID/onair/jp/biz/422454 参照)


それが今スマッシュヒット。
全国公開へと広がりを見せている。
平日の昼間に見に行ったのに、ほぼ満席。
小さな映画館だったってこともあるけど。
土日だと立ち見になってるんじゃないか!?
こういう形で公開が決まって、口コミで客も押し寄せるってのはいいね。


場所は渋谷の「シアターN」
新しい映画館?と思って行ってみたら
実はユーロスペースの跡地をそっくりそのまま利用したものだった。


ミュンヘン」の後に続けて見るとさすがに
「映画」としての出来は見劣りしてしまうけど、
ドン・チードルの好演もあってなかなかいい映画でした。


エンドロールに流れる主題歌にて、
アメリカが州が集まってできた国だというのなら
どうして「アフリカ合衆国」が不可能なのだろう?
イギリスが王国の集まりだというのなら
どうして「United Kingdom of Africa」とならないのだろう?
と歌われていた。
そうだよな。もっともだ。
国家という単位と民族 / 部族という単位がちっとも折り合わない地域が
この世界にはいくつかある。それぐらいなら、単位を変えてしまえばいい。
国家にこだわらなくてもいい。
それはそれで理想主義的で、また別種の問題を生み出してしまうのかもしれないけど。