盛岡ツアー その5

okmrtyhk2008-04-08


ガイド続き。
歩いているうちに毘沙門橋に差し掛かる。
ここは昔吊り橋だったとのこと。
そういえばさっき、ここを渡って城跡公園に入ったな。
でも今回は素通り。
そのまま歩いてちょっと脇道に入って新渡戸稲造生家跡へ。
小さな公園のようになっていて銅像が建っている。
写真でよく見かけるように、小首を傾げて頬杖をついている。
ガイドの方は
新渡戸稲造って5千円札の人ってことで皆知ってますが、
 どういうことをした人なのかは割と知られていません。
 ここに集まりの皆さんはご存知ですか?」
恥ずかしいことに、「待てよ・・・?」と思ったきり何も思い浮かばず。
「外交家?」という声が上がり、「当たりです!」と。
「でもそれだけじゃありません」
札幌農学校で教え、国連の大使を務め、今の商工会議所の成立に尽力・・・
とあらゆる方面でその才能を発揮。
いや、あの、よく知らなかったです。すいません。


メモ:
・奥さんがビクトリア生まれのカナダ人ということもあって、
 亡くなった場所はビクトリア。
 それが縁となり盛岡とビクトリアは姉妹都市となる。
 ビクトリアから送られてきたハンギングバスケットを盛岡市内のあちこちに飾っている。
 ハンギングバスケットの数は今、ビクトリアよりも多い。
(背の高い街灯みたいなのに色とりどりの花の入ったバスケットを吊り下げる。
 僕らの見に行った時期はまだ寒いのでバスケットは外されていた)
 僕らがその後歩いた、城跡沿いの中津川沿いの道は「ビクトリアロード」と呼ばれ、
 このハンギングバスケットが一定間隔で並んでいた。


・生家が盛岡城に近かったのは祖父、父共に城勤めをしていたため。
 新渡戸稲造も小さい頃、よく城の近くで遊んだものだという。
 雪が積もると坂をソリで滑ったり。


・そういうこともあって、城跡の公園の高台には新渡戸稲造の石碑が残されている。
「願わくはわれ 太平洋の橋 とならん」
 これは東京帝国大学の英文科を受験しようとした際に
 それまで学んでいたのが札幌農学校と全然違う分野だったことに
 興味を持った試験官に問われて、答えたもの。
 このとき、まだ10代半ばの若さ。
 この石碑は上部に楔が一列になって埋め込まれていて、「架け橋」をイメージさせる。
 ビクトリア市にも同じ石碑が置かれている。


・何年か前の冬のある夜、この公園の隣の家に住む人が
 夜中に若者たちが騒いでいる声を聞いた。
 なんだろうと思って次の日見てみたら
 銅像にマフラーが掛けられていた。
 いつもふきっさらしで寒かろうと。
 マフラーを外して銅像の足元に置いておいたところ、
 持ち主が持って帰ったのかある日なくなっていた。


新渡戸稲造の公園を出て、「下の橋」を渡る。
川向こうに中学校が見える。ここがかつて石川啄木が通った学校。
ここで金田一京助と出会っている。
晩年に親交を結び、死を看取った若山牧水との友情の歌碑が残されている。


橋を渡り終えて、通りの先にあったのが「賢治清水」
宮沢賢治が盛岡の農林学校に通うために
弟の清六と共に過ごした下宿先の近くにあって、利用した湧き水。
盛岡を代表する祭りである「チャグチャグ馬コ」について
故郷花巻の言葉で歌った詩が石碑に彫られている。


城跡公園の中へ。
戊辰戦争で朝敵となった南部藩は城が取り壊された。
今残っているのは蔵が1つのみとなる。
今は国の指定する史跡となっているため、
城を復元するならば寸分違わないものとしなければならない決まりがある。
しかし、当時の図面が一切残っていないためどうにもできない。
明治初期にたった一枚だけ残された城の写真を見せてもらった。


石垣は雨を受けて崩れやすく、時折修復を受ける。
石垣の大きな石1つ1つに番号が付けられ、記録に取り、
番号の通りにまた積み上げられていく。
その隙間に小さな石が詰め込まれていく。


虎の話を聞いた。曰く。
「昔、南部藩のお殿様が江戸の将軍から二匹の虎をもらいました。
 将軍様からもらったのだからと粗末にすることもできず、
 城の中に家を建て、家来として扶持ももらうことになりました。
 虎は生肉を食べるというので、毎日野良犬が餌として与えられました。
 そのうちに辺りに犬がいなくなって、噂では、
 噂であって本当かどうか誰も今となっては分かりませんが、
 隠れキリシタンが見つかると処罰して・・・、って言われています。
 そんなある日、虎の1匹が逃げ出して城内をうろつくようになり、
 家来たちは捕らえようとするがうまくいかない。
 そこに殿様が鉄砲を撃って仕留めたそうです」


公園の中を歩く。
サッカーのゴールポストの置かれた広場ではギターをかき鳴らす2人組が
「世界で一つだけの花」を歌っていた。・・・あんまりうまくはなかった。


本丸へ。
架けられた橋はかつて三層の屋根付の橋であったという。
1番上はお殿様だけが歩き、2番目は家老が、3番目は身分の高い家来が歩く。
下々のものは橋を渡ることができず、遠回りし無くてはならなかった。
今は欄干のある丸みを帯びた、3番目の橋だけが残されている。
このような三層構造の橋は高松とここ盛岡だけに存在したのだという。


本丸には立派な台座が鎮座していた。台座のみ残っている。
戊辰戦争での南部藩の汚名をそそごうと
日露戦争に中尉として従軍して24歳の若さで戦死した
南部藩の藩主である南部利祥の銅製の騎馬像がかつてここにあった。
太平洋戦争の際に鉄砲の弾に使うためとして供出。
歴史的な像は本来供出の対照しなくても良かったのだが、
南部気の子孫の方たちがやはり南部藩汚名挽回のために決断したとされる。


公園の林の中を小さな川が流れている。
夏になるとここに近くの小学校で飼育した蛍を放す。
数え切れない蛍。そのほんのりとした光で照らし出される小川。
幻想的な光景。見てみたいと思った。


坂を下り切ったところに「チャグチャグ馬コ」の鈴を模した音の出る遊具がある。
揺らすと風鈴のような仕組みになっていて音が鳴る。
6月末の「チャグチャグ馬コ」のシーズンにまたいらしてくださいとガイドの方が言う。
60頭もの馬が鈴を付けて飾り付けられ、
盛岡市内を練り歩く壮観な様を是非とも見てほしいと。