シルバーウィークに和歌山に住む映画サークルの後輩の家に行ったとき、
ルイス・ブニュエルのDVDを何枚か持っていたので無理を言って借りてきた。
シルバーウィーク後半は夜、これを観て過ごした。
借りたのは、以下の4本。
「欲望の曖昧な対象」
「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」
「哀しみのトリスターナ」
「小間使の日記」
どれも最近、1500円という安さで再発されてるんですね。
店頭在庫のみで、すぐにも入手不可となってしまいそう。
というか実際いくつかは即に無くなっていて、後輩はヤフオクで入手したとのこと。
これらに限らずブニュエルの作品、全然見ていない。
昔なんだったか忘れたけど見て全然ピンと来なくて、相性が悪いんだろうなあと思ってそれっきり。
高名な「アンダルシアの犬」すら見ていない。
この機会に「食わず嫌いも直るかも」と期待して、さっそく観てみた。
まずは「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」
ミランダという架空の小国の大使を中心に、
ブルジョワの中年男女6人がお互いを誘いあって毎日のようにディナーを催そうとするんだけど、
毎度毎度あれこれ邪魔が入って食事にありつけない。
ホストと客が日付を間違えていて用意なし、
車に乗ってレストランに行ったら主人がその日亡くなっていた、に始まり、
家に招いたはいいが、夫婦共にHな気分になって客をほったらかして外でニャンニャンしてるうちに
客の方が「遅い」「もしかしたら何か裏があるかも」「陰謀かも」って勘繰って帰ってしまったり。
どんどん「ありつけない」理由のみもふたもなさがエスカレートして、
ディナーの席を用意したとたん、軍隊の演習だとか、全員が警察に逮捕されるとか。
ただそれだけ。出来の悪いコントを見るかのよう。それが延々と続く。夢オチもあり。
正直、何が面白いのかよく分からなかった。
でも、これが1972年のアカデミー外国語映画賞を取ってるんですね。
見てる人はちゃんと見てて、ちゃんと評価してる。
試しに allcinema ONLINE のユーザー評を見てみると、賛否両論真っ二つ。
つまらん、眠かったという人と、稀に見る傑作だ、至高の芸術だという人と。
なんかとにかく、ブルジョワジーのあくなき欲望に対する風刺、ブラックユーモアなのだそうな。
何にしてもこの作品、面白いかどうかは別として、議論の余地がありそう。
この作品を「理解」するに当たって、僕が取っ掛かりとして思い浮かべたのは3つ。
1)同じスペインのペドロ・アルモドバルの作品が僕は好きなんだけど、
見てて時々、自分が面白さと感じてる部分とは全然別の箇所でよく分からなくなることがある。
例えば、この場面は、この描写は、なぜ必要なのだろう?と。
この「暗い部分」がルイス・ブニュエルに通じているのかもしれない。
2)もしかしたら、これってフェリーニの「8 1/2」のコンパクト版なのかもしれない。
どちらも取り留めのない風刺に満ちたエピソードの羅列なんだけど、
「8 1/2」はそれでもどっかに向かっていく。物語を成立させようとする。
一方で「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」はどこにも向かわない。物語を成立させる気はない。
そこに大きな違いがある。
3)もしかしたら、フローベールの「ブヴァールとペキュシェ」の映画版なのかもしれない。
それを描いてしまったら終わりだろう、っていう。
「ブヴァールとペキュシェ」は小説で描けることがどこまであるのかを探る試みだった。
とんでもない荒野、極寒の地まで足を踏みいれた。
もしかして、それと同じことをしているのかもしれない。
映画って何をどこまで描いていいものなのか?
大事な手がかりは、エピソードの積み重ねがどこにも向かわないこと。
「はい、今回もディナーにありつけませんでした」「じゃあ、次」
ただそれだけ。
何かを揶揄したいというテーマはある。
(1つにはブルジョワジーの欲望というものに対して、1つには映画という表現媒体について)
だけど物語がない。その大きな構成要素として、ストーリーの展開、起承転結がない。
なぜ、そんなものが映画として成り立つのか?
これ、思慮深い実験なのか、それとも誰かをからかってるだけなのか?
でも、最も気になるのは実はここではなく。
見たらどのことかすぐ分かるけど、エピソードの合間合間に
6人が田舎の一本道を楽しそうに歩いていくシーンが必ず挿入されていて、
見てるとなぜかここにプリミティブな映画的感動を抱いてしまうんですね。
どこにどんな感動を抱いているのか分からない。
でも、なぜかグッと来てしまう。
これが一番の謎。
見たら確実に面白くもなんともないので、もう一度見ることはないと思う。
でも、この映画のことをこれから先何年も考え続けるのは確か。
そういう意味では不思議な余韻というか、爪あとを残した映画。
ブニュエルに、してやられた。
-
- -
その後、残り3本を見た。
「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」
「欲望の曖昧な対象」
「哀しみのトリスターナ」
「小間使の日記」
この順。これ、逆に見るべきだった。
アクが強いけど、まだ普通の映画を作っていたのが
「小間使の日記」と「哀しみのトリスターナ」だとしたら、
「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」で映画の破壊を成し遂げ、
それを経た上での「欲望の曖昧な対象」という帰結。
心の準備をしてから、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」に向かうべきだった。
それにしても、ブニュエルって物語というものの構成要素のうち、
「キャラクター」ってのがとても大きい。突出している。
癖の強い登場人物を中心に据えて、
出来事を与えてその反応からストーリーが展開するという方式。
ゆえに主演女優はどれも当代きっての美形である必要があり。
「小間使の日記」はジャンヌ・モロー、「哀しみのトリスターナ」はカトリーヌ・ドヌーヴ。
彼女はこんなに性格きつかったっけ?と思ってしまう。
気になるのは、これら花形女優たちにとって
ブニュエルの映画に出るというのは喜ばしいことだったのか?
自ら進んでだったのだろうか。
それぞれがやりがいのある挑戦だったのでは。
僕が女優だったら尻込みしたくなるけど。