『悪人』

昨日の夜、『悪人』を見てきた。
今年の日本アカデミー賞の作品賞を始め、男優賞・女優賞を総ナメかと思われる。
・・・それはさておき。


なんで普段日本映画を見ない僕がわざわざ劇場まで足を運んだかというと、
新聞なのかWEBなのかテレビなのか、
訳者として新境地に立てたという妻夫木聡のインタビューが印象に残ったからだった。
同じような話がパンフレットの中にあった。
かいつまむと、こんなようなことを話していた。


今回の役である「祐一」になりきれた瞬間はなかった。
そういう実感のなさが、「祐一」になることだった。
「今のは祐一っぽいな」と思ったとしたら、それは妻夫木聡のままだ。


なるほど、と唸った。
役者が人物を演じるということについて、一つの答えのように感じられた。


とあるところで出会った
「触れるなかれ、なお近寄れ」という言葉のことをずっと考えている。
日本の芸事の真髄はここにあると思う。
そこにリンクするんですね。妻夫木聡の言葉が。
肉薄した末に、どこに辿り着くのか。


僕は吉田修一による原作を読んだわけではなく、
「祐一」という人物が文章の中でどのように描かれているのか分からない。
でも、妻夫木聡の「祐一」はその人物をきちんと体現して、
対峙しうる存在となったのではないか。


僕個人の印象として、
深津絵里演じる「光代」はその正反対のアプローチだったように思う。
それはそれで一つの答えであって、正解はない。

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李相日監督の映画を『フラガール』と続けて観たんだけど、
この監督の才能はすごいね。
どうしてここまで何の変哲もない「いい映画」を撮れるのだろう。
もったいつけたような芸術性や
観客にとってどうでもいい自己主張やこだわりが微塵もない。
全てがあるべき場所に収まっていて、無駄がない。
一つ一つのパーツがきちんとそれぞれの役割を果たしている。
それでいて演出も脚本も撮影も目立たず凡庸かというとその逆で、非の打ち所がない。
すーっと調和している。
そうか、この人にとって演出や脚本や撮影といった区別はなくて、
ただ単にそれは映画なのだ。
「生きる」という行為を「考える」や「呼吸する」の組み合わせと捉えても
何の意味もないように。


簡単なことのようでいて、それはとても難しい。